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朝鮮王室の子どもの教育法

Posted May. 20, 2005 23:29,   

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朝鮮(チョソン)時代、正祖(チョンジョ、第22代王)が11歳のとき、父親の思悼世子(サドセジャ)は祖父の英祖(ヨンジョ、第21代王)によって米びつに閉じ込められて死亡した。それが正祖にはおびただしい衝撃と混乱をもたらしたようだ。しかし、正祖はその不遇な環境を乗り越え、朝鮮の18世紀文化ルネサンスを成し遂げて、朝鮮後期での最高の王になった。

朝鮮前期に、各種の制度を整備し王朝の体系を完成した成宗(ソンジョン、第9代王)は、燕山君(ヨンサングン、第10代王)を生んだ。その偉大なる王から暴悪な燕山君が生まれたのだ。

どうして、このような差が生ずるのだろうか。この本はその答えを母親の教育とみる。善良で賢明な母親の惠慶宮・洪氏(ヘギョングン・ホンシ)があったため、正祖が聖君になっており、嫉妬と怒りに一貫した母親の廃妃・尹(ユン)氏のため、燕山君は暴君になったという話だ。

この本は、朝鮮時代の王室の教育に関して多様でおもしろい話を紹介している。世宗(セジョン、第4代王)、燕山君、仁宗(インジョン、第12代王)、景宗(キョンジョン、第20代王)、思悼世子、正祖などの例を通じて、彼らがどんな教育を受けており、それがどんな結果を生んだのかを書いている。

釜山(プサン)にある釜慶(プギョン)大学の教授である著者は朝鮮王室史が専攻。去年、もう一冊『宮女』という本を出刊して、大衆から人気を博したことがある。

著者は、まず親がどれほどの暖かな愛情と信頼さ、まじめな態度を見せてくれたのかによって、王室教育の情勢が変わったと強調する。英祖—思悼世子—正祖、この3代の例がこれを端的に見せてくれる。

英祖は長男が死んだ後、7年ぶりに思悼世子が生まれると直ちに元子に冊封した。そして帝王教育をするために隔離して、臣下に任せっきりであまり訪れたりはしなかった。結局、親と子はよそよそしい関係になった。それで、思悼世子は父親の英祖が常に恐ろしかった。英祖はもじもじとする息子をひどく叱った。父親に対する思悼世子の恐ろしさは精神疾患につながった。英祖の叱責を受ければ、思悼世子は人々を殴るか、殺すことでストレスを解消した。英祖はさらに怒ったし、これが思悼世子の命を奪う原因の一つになった。結局、幼いとき、親の無関心が思悼世子の悲劇をもたらしたと著者は説明する。

一方、正祖の成功は母親の惠慶宮洪氏の賢明な教育によるところが大きい。思悼世子の妻の惠慶宮・洪氏が正祖を生んだとき、思悼世子と英祖の葛藤はすでに深刻な水準だった。洪氏は正祖が思悼世子の二の舞を踏まないように手厚く愛した。

夫の思悼世子が亡くなったときにも、心を引き締めて賢さを失わなかった。正祖のためだった。特に洪氏が正祖に復讐心を吹きこまず、英祖の聖恩に感謝しなさいと教えたのが決定的だったと著者は強調する。これと違って、燕山君は朝鮮王室の最悪の胎教失敗作だと著者は説明する。王妃が妊娠すると、王は夜の生活を謹身するのが朝鮮王室の礼法だった。しかし成宗は妃尹氏が燕山君を懐妊すると、今度は2人の後宮と関係を結んでおり、後宮たちも懐妊することになった。この事実を知ることになった尹氏は後宮たちを極度に嫉妬し憎悪した。成宗との喧嘩も頻繁になった。2人の後宮を殺そうとまでした。

著者は燕山君の暴悪性がここで始まったと考える。母親尹氏の憎悪心が、腹の中の燕山君に最悪の影響を及ぼしたという話だ。謹身しなかった父親の成宗も責任を兔れることはできない。

心性を重視する王室教育の話もおもしろい。胎児の情緒のために姙娠中には宮廷でムチをする刑罰を中断した胎教方式、明成皇后(ミョンソンファンフ)が純宗(スンジョン、第27代王)を生んだとき、絹ではなく古い木綿の布団を被せて慎ましい心性を育てようとしたことなどだ。

学問教育はだいたい5歳前後に始めて即位してまで続いた。王位に上がれば、学識と徳望の高い学者たちから学問を学び、討論もした。これを経筵(キョンヨン)と呼んだ。一種の生涯教育だ。元子及び世子の教育をまともに受けることができなかった英祖が、朝鮮後期の繁栄の土台を構築したのも、持続的な経筵のお陰だと著者は言う。

朝鮮の王室教育は、このように胎教から幼児期、少年期、即位後の教育にいたるまで段階的でありながら緻密に行われた。そのうち最も重要な徳目は、やっぱり親の愛と知恵であったことを、この本は淡々と、はっきりとした口調で語っている。



kplee@donga.com