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兵役逃れ疑惑、03にも解明できなかった 指切断の真相は?

兵役逃れ疑惑、03にも解明できなかった 指切断の真相は?

Posted May. 19, 2005 23:27,   

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「信じられないのであったら、一緒に(指を切った)工場へ行きましょう。(現場で)あの時のことを説明しますから」

2003年4月5日午前。記者は与党ヨルリン・ウリ党の李光宰(イ・クァンジェ・当時の大統領国政状況室長)議員とともに、仁川市富平(インチョンシ・プピョン)に向かった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の発足直後、当時の人々の関心は政権の中核として台頭してきた「左のヒジョン(安煕正)と右のグァンジェ(李光宰)」に集中し、李議員は「兵役逃れのため指を切ったのではないか」という疑惑を持たれていた。

当時、記者は社会部の事件担当記者として約1ヵ月にかけて取材したが、指を切断された理由は分からなかった。

数十回も李議員に電話したものの話ができず、結局2003年3月13日に夫人を通じて「(李議員は)兵役逃れの疑惑をもたれているが、今の地位を考えると何らかの釈明の必要があるのではないか」と伝えた。

2003年3月22日午後7時。約束を2回キャンセルされた後、やっと記者はソウル鍾路区(チョンロク)の世宗(セジョン)文化会館の隣にあるカフェで初めて李議員に会えた。李議員は、指を切断した当時のことを簡単に話しただけで、詳しい状況や根拠については触れなかった。

その後も2、3回会ったが、何も得られなかった。軍事政権から逃げ回っていた時、李議員は「逃走中に仮就職していた工場で事故に遭い指を切断したが、同事故を目撃した人がいないため、証明のしようがない」ともらした。

「その工場はどこにあるのか。私たちが出向いて確認する」という記者に、彼は「住所はわからないが、場所は覚えているから、行きたいなら案内する」と話した。

2003年4月5日土曜日午前、李議員、記者、そして仲間のもう一人の記者の3人は、記者の車で以前工場があったという富平に向かった。

車の中で彼はこのように話した。

「1985年に大学を除籍され、兵役のため身体検査を受けました。しかし、先輩にもっと学生運動をするようにと言われ、入営を2回延期しました。その時、富平にある小さな工場に仮就職をし、大企業に仮就職するために機械の操作、労動者の習慣などを覚えました(彼はこの工場のことを「町工場」と呼んだ)。工場というより、町外れの住宅の地下室に機械が何台か置かれているだけのところでした。その時、機械を使っていて事故に遭ったのです。」

李議員は「当時、病院には行かず、見た人もいない」と付け加えた。

数回の試行錯誤の末、私たちはある軍部隊を通り過ぎてある町にたどり着いた。李議員は当時はバスで通勤していたが、軍部隊のそばの丘を右折しなければならないとも言っていた。

私たちは往復6車線の道路沿いにあったという工場をいろいろ探し回ったが、結局わからなかった。

「町全体がすっかり変わっていてわからないな。この辺だろうと思うけどね。確かこの辺に横道があって…」

彼はがっかりする記者に悪いことをしたという顔で、「すみません」を何度も言った。

成果なしの帰りの車の中は、ほぼ無言のままだった。あまりの虚脱感から何も質問する気になれなかった。李議員はいつまでもすまない顔をして「よかったら一杯やっていかないか」と誘い、私たちは光化門(クァンファムン)にあるバーでビールを6本空けた。

李議員はその席で「本当に申し訳ない。迷惑をかけた。証明したかったのに…。もどかしい。私を信じてほしい。月に1回でも会って付き合いをしたい」と言い残して別れた。

李議員とはその1ヵ月後にたった1回会って食事をしたきりで、今まで会っていない。

そして記者は2005年5月19日、李議員のホームページで「1986年に太極旗(テグクキ)に血書を書くため指を切った」という、彼本人が書いた文を目にした。

どうして彼は2年前に富平まで記者を連れて行ったのだろうか。そしてその場所はどのようにして思いついたのだろうか。



sys1201@donga.com