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『策問』… 時代の問いに答える

Posted September. 03, 2004 22:56,   

『策問』

金テファン解説著/504ページ/2万ウォン/ソナム

「愚かで物事の判断もできない私が国の大業を受け継いだものの、私は知恵も足らず賢明でもない。深い池と薄氷を渡らなければならないが、渡る術を知らず、今すぐにすべきことが何かも分からない」。

1611年、朝鮮の君主・光海君(クァンヘグン)は、科挙の最終合格者33人に策問を出題して、このように切なる姿勢で質問した。人材登用、税制改革、土地整備、戸籍整理などの問題で、壬辰の乱後の民衆を蘇生させるために急いですべきことは何かと聞いたのだ。

35才の儒学者・任叔英(イム・スクヨン)は答えた。「なぜ自らの失策と国家の過失を取り上げないのか」と。彼は「王妃と後宮の権力介入を黙認し、賄賂を通じて官職の地位に就くことを容認し、君主の過失を批判する言路を弾圧することこそ、急いで解決しなければならない問題だ」と進言する。

この答えは、朝鮮朝最高の現実主義外交を繰り広げたが、内政に失敗した光海君の弱点を痛烈に指摘する。庶子の身分で伝統性が弱かった光海君は、権力から疎外された北人を大挙起用して改革を標榜したが、後宮と北人勢力が結託した「コード人事」、国家財政調達のための売官売職、これを批判する言官に対する弾圧などで、自滅の道を歩んだためだ。

これを意識したためか、光海君も低姿勢で質問を投じたのだが、いざ任叔英の答えを読んで大いに激怒し、合格者名簿からその名を削除するように命じる。左議政の李恒福(イ・ハンボク)と領議政の李鄹ヒョン(イ・ドクヒョン)など朝廷の主要大臣が乗り出してその不当さを指摘し、4ヵ月間も引きずったこの削科波紋は結局「今後、質問要旨から外れた回答をした者は、科挙に選抜するな」という君主の教示でおさまった。

朝鮮時代の科挙は、予備考査の性格の小科と本考査の大科に分かれる。小科は四書五経の知識を評価する生員試と詩・賦などで文章力を評価する進士試がある。これに合格した進士と生員に大科受験の資格が与えられる。大科は普通、初試と覆試、殿試の3段階で行なわれる。科挙及第は初試を経て覆試まで合格した場合を言う。策問は、この最終合格者(普通33人)の成績を評価するために、君主が行なう殿試で出題される問題だ。君主が直接出題する策問は、当代の国家課題に対する方策を問う質問だ。

この本は、今日にも有效な国家的苦悩を盛り込んだ13の策問と名臣たちの15の対策をハングルで解釈して解説をつけた。もちろんその対策は、道と徳の実現という儒教的形而上学に基礎を置いているが、その問題意識は今日にも有效で普遍的な響きを持つ。

朝鮮の科挙制がただ古典に対する常識と文才で人才を選抜したのではないという点を明確に示している。光海君と任叔英の例で分かるように、そこには国家に責任を負う統治者の現実的な苦悩と若い人才の命をかけた熾烈さが溶け込んでいる。

1515年、中宗は科挙及第者たちに「汝が孔子なら、今の状況でどのような政治をするか」という趣旨の策問を出した。この策問を受けた及第者の中には、後日、道学・政治改革に乗り出す趙光祖(チョ・グァンジョ)がいた。彼は「孔子が国を治めた方法は『道を明らかにすること』であり、学問と見なしたことは『一人でいる時に注意すること』だけだった」という回答で、自分の路線を明確にした。

1447年、世宗(セジョン)29年にともに科挙に合格したが、後日「万古の忠臣」と「実利主義者」として評価が分かれる成三問(サン・サンムン)と申叔舟(シン・スクジュ)。「いくらいい法でも時間が経つにつれて弊害に陥る。これを防ぐ対策は」と問う世宗の質問に、2人の回答は分かれる。成三問は「心が根本で法は道具だ」として君主の心にかかっていると答え、申叔舟は「人才を得て仕事を任せることにかかっている」と答えた。君主中心の「忠」と臣下中心の「用」を強調した答えに、すでに2人の運命が予告されていたのではなかろうか。



權宰賢  confetti@donga.com