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私が烈女だと?それは、私を2回殺すこのなのよ!

私が烈女だと?それは、私を2回殺すこのなのよ!

Posted June. 04, 2004 22:55,   

「香娘(ヒャンラン)、山有花で散る」

チョン・チャングォン作/236ページ/1万800ウォン/プルビット

朝鮮時代肅宗(スクジョン)王28年(1702)、慶尚道善山府(キョンサンド・ソンサンブ)サンヒョンゴク(現慶尚北道亀尾市ヒョンゴク洞)で、良人出身の女性一人が自殺した事件が発生した。幼い頃、母親に死なれて、継母のもとで育った香娘と言う名前のこの女性は、17歳の時、同じ村に住む14歳のチルボンに嫁入りした。主人のチルボンは浮気をしながら、彼女に暴力を振るい、香娘は結局、3年後、離婚をして実家に戻った。

しかし、実家の両親は彼女を受け入れてくれなかった。叔父にも尋ねて身を託したが、叔父も間もなく、彼女に再婚を勧めた。香娘は仕方なく、再び婚家を尋ねた。しかし、主人の横暴は以前としており、今度は舅まで再婚を勧めた。居所の無くなった彼女は、洛東江(ナクトンガン)の支流であるオテ江に行って、たきぎを取りに来たある少女に自分の不遇な人生史を話して、「山有花」と言う歌を歌った後、川水に身投げをして命を絶った。

この事件の報告を受けた善山府使(朝鮮時代の地方の長官)は、香娘が絶義を守るために自殺したといって、彼女を烈女だと中央政府に推薦した。2年後、王様はとうとう香娘を「貞女」と称し、その墓の横に碑石を建てるようにした。

「香娘は田舍の無識な女性だが、2人のご主人に仕えないという義理が分かり、死で自らを守り、また死を明白にしたので、たとえ『三綱行実』に収録された烈女でも、彼女より上ではない」ということだった。

香娘は烈女として世の中に広く知られ、18、19世紀の文人たちは伝、漢詩、小説、雑録など20編あまりの作品で香娘の生を記録した。この「烈女」の墓は現在、慶尚北道亀尾市(キョンサンブクド・クミシ)ヒョンゴク洞山21番地にあるが、彼女が自殺した旧暦9月6日には毎年、彼女の墓の前で墓祭が開かれる。

著者(高麗大韓国学研究所研究員・国文学)は、「香娘は烈女ではなく、18世紀頃、家父長制が定着して行く過程で発生した悲劇的事件の犠牲者だった」と主張し、この女性の自殺事件を改めて追跡して行く。

彼によれば、香娘は無条件にご主人に順従した女性ではなく、根強く現実を生き抜いた女性だった。彼女は浮気をしながら暴力まで振う夫に立ち向かって離婚した後、離婚した女を蔑む風習が定着していた18世紀初の朝鮮の現実の中で、自分の居場所を見つけられず、仕方なく自殺を選んだというのだ。

著者は、妻の実家で暮らすのが一般化され、男女が田畑で同等に労働した朝鮮時代初までは、夫婦関係と財産相続、離婚と再婚などの問題で、男性と女性の地位に何の差もなかったという点に注目する。

性理学的理想国家を標榜した朝鮮が建国された後、15、16世紀に、性理学的家族制度が社会全般に染み込み、壬辰の乱(1592)と丙子胡乱(1636)以後、支配層が礼学を強調しながら崩れた社会体制回復を試みながら、頑固な家父長制が確立されて行ったというのだ。

家父長制の虚像と弊害を批判的に再評価しようとする著者の意図が度を過ぎたため、「香娘」を取り囲んだフィクションとノンフィクション、主張と事実が混同される部分も少なくない。しかし、彼の話に付いていってみると、21世紀韓国社会の家族制を一歩退いて眺めることができるようになる。



金炯瓚  khc@donga.com