「私は誇らしい太極旗(テグクキ)の前で、祖国と民族の無窮な栄光のために、この体と心を持って忠誠を尽くすことを固く誓います」という「国旗に対する誓い」は1968年忠南(チュンナム)道教育委員会が自発的に作って広めたのがその初めである。72年文教部がこれを受け入れて全国の学校で行うようにし、84年2月に「大韓民国国旗に関する規定」(大統領令第11361号)で法制化された。軍事独裁の時代でのことだったが、地方教育委が自発的に始めたという点で、「国旗に対する誓い」を独裁政権の統治手段と見るのは難がある。厳密に言うと、「国家」と「政権」は区別されなければならない対象だ。
◆先日、「カジュアル服装議員の誓い」で取り沙汰にされた柳時敏(ユ・シミン)国会議員が今回は、「国旗に対する誓い」を批判した。彼は、「国旗に対する誓い」をファシズムと日本帝国主義(日帝)の残財とし、「主権者に公開の場で国家の象徴物や国家に対する忠誠を誓わせることは民主共和国では想像もできないことだ」と一喝した。柳議員は02年の冬季オリンピックのショート・トラック競技で金東聖(キム・ドンソン)選手が太極旗を床に投げつけたかどうかをめぐって大騒ぎになった時も、あるインターネット媒体に、「太極旗を投げつけたからって何だ」という文を載せたことがあった。今回の発言が偶発的なハプニングではないということだ。
◆柳議員の言葉を善意で解釈すれば、「過渡の国家主義を警戒すべきだ」という意味で受け止めることもできるだろう。だが、「国旗に対する誓い」をファシズムや日帝の残財だとして酷評したのは度が過ぎた。「国旗に対する誓い」がファシズムの産物だとすれば、幼稚園の時からこれを暗誦させる米国もファシズム国家だというのか。1942年にすでに「国旗に対する誓い」を法制化した米国で、国民にこれを強制したという話は聞いたことがない。また、日章旗に対する忠誠を強要された植民地時代と、韓国の国家象徴に対する礼儀を同一線上に置いて批判するのも正しいことではない。
◆国旗下降式の時に立ち止まらなかった、として非難を浴びた時代はとうの昔のことだ。国家に対する敬意は強要して得られるものではない、ということは誰でも知っている。むしろ、昨年ワールドカップ・サッカー大会の時に、全国の都市を染め抜いた太極旗の波でも分かるように、人々は自発的な愛国心の現われによって深く感動する。だから、「形式」は必要だ。個人の愛情も言葉で表現した時にさらに深まるように、愛国心も「国旗に対する誓い」と同じ形式を通じて、さらに高められる。「国旗に対する誓い」がいやならやらなければいい。それを批判する理由が、どうしてなのかちょっと理解できない。
宋文弘(ソン・ムンホン)論説委員 songmh@donga.com






