1978年のバンコク・アジア大会の時の話。男子バスケットボールチームの主力センターであるシン・ソンウ選手が急にマラリアにかかり、高熱を出した。すぐに入院しなければならない状態だったが、簡単な問題ではなかった。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との試合を控えていたためだ。夜を徹して対策会議を開いた翌日、試合会場にいきなり酸素ボンベが登場した。シン選手は、酸素呼吸器をつけて横になっていたが、状況が劣勢になると出場し、疲れたらまた戻って横になり…。北朝鮮の棄権で勝ちはしたものの、今思えば無ぼうこの上ない「作戦」であった。北朝鮮とのスポーツ対決が「戦争」に表現された時のことだ。
◆1990年の北京アジア大会は、南北スポーツ交流の嚆矢(こうし)であった。対決一辺倒から、初めて合同応援が行なわれたのが、まさにこの大会である。続いて、ソウルと平壌(ピョンヤン)を行き来して統一サッカー大会が開かれ、翌年の世界卓球選手権大会では、夢に見た単一チームが結成された。東京オリンピック時に単一チームの構成を求めた国際オリンピック委員会(IOC)の勧告で、初めて南北体育会談が開かれたのが1963年だから、ほぼ30年ぶりに単一チームが誕生したことになる。韓半島旗(統一旗)をつけた玄靜和(ヒョン・ジョンファ)、李ブンヒ選手の南北ペアが、世界最強の中国を破ったその時の感激は、今も忘れられない。2年前のシドニーオリンピックの時は、南北選手が同時に入場した。
◆近代オリンピック100年史を通じて、スポーツ交流の最も大きな成果は何だろうか。米国と中国のピンポン外交を挙げる者もいるが、それよりは分断ドイツのオリンピック単一チームが優るだろう。1956年メルボルン大会から1964年東京大会まで、オリンピックに3回続けて東西ドイツ単一チームが出場した。このために開かれた体育会談だけでも200回を超えるというから、そうして積み重ねた相互理解が、後の統一の下地になったのだろう。黒人弾圧で国際社会から白い目を向けられた南アフリカ共和国も、1992年のバルセロナオリンピックに白人黒人の混成チームを出場させ、人種差別国の汚名をそそいだ。まさにオリンピックの力である。
◆北朝鮮が、来月釜山(プサン)で開かれるアジア大会に参加するという。北朝鮮は、これまで韓国で開かれた国際大会に一度も出場したことがない。従って、南北スポーツ交流50年史上、最も大きな「事件」になるに違いない。民族の霊山である白頭山(ペクトゥサン)と漢拏山(ハンラサン)で聖火を採取し、板門店で合火することから、南北の正気を一つにする大会でもある。今大会を契機に、これまで北朝鮮が示してきた「挑発と和解は別もの」という態度がなくなることを望む。今なによりも重要なことは、信頼を与えることである。
崔和敬(チェ・ファギョン)論説委員






