6月29日に韓国西海(ソヘ)で起きた砲撃戦を契機に、金大中(キム・デジュン)政権の太陽政策をめぐる攻防が加熱している。平和統一の同伴者と言っていた金正日(キム・ジョンイル)総書記の指揮下にある北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の軍部が、急に韓国に奇襲攻撃を加え、20人余りもの死傷者を出した事態を前にして、韓国国民が衝撃と憤り、そして裏切りを感じるのは当然であり、これによって政府の対北政策の基調である太陽政策をめぐる論争が起こることはやむを得ない。
しかし、他の問題の討論も大方そうであるように、今回の太陽政策の攻防も、理性的な討論を通じて北朝鮮の謝罪を求める方策を検討したり、他の政策代案を導き出すよりは、内部的な葛藤だけを増幅させている。
太陽政策の正しい討論のためには、この政策の擁護者であれ反対者であれ、忘れてはならない事実がある。それは、韓国の対北平和共存政策は、すでに1970年代初めから、そして経済支援を骨子とする対北協力政策は80年代から、推進されてきたという事実だ。
現政権で「対北抱擁政策」や「太陽政策」とも呼ばれる北朝鮮への和平協力政策は、朴正煕(パク・チョンヒ)政権の中盤、70年8月の朴大統領の「平和統一構想宣言」や72年の7・4南北共同声明で始まった。全斗換(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)政権に入ってからは、より積極的に北朝鮮に接近し、84年南北経済会談の開催、90年南北交流協力法の制定、91年には歴史的な南北基本合意書の締結を達成させた。金泳三(キム・ヨンサム)政権は、発足後すぐ、世論の反対をかえりみず「非転向長期囚」のイ・インモ氏の北朝鮮行きを断行するなど対北和平政策に力を入れ、金日成(キム・イルソン)との首脳会談に合意したが、彼の死で実現できなかった。
このすべてが、対北接触と支援を通じて北朝鮮の変化を図ろうとする政策、すなわち太陽政策だった。
「太陽政策」という用語も、以前から使われていた表現だ。95年10月、金泳三政権当時、忠清南道(チュンチョンナムド)夫餘(プヨ)に武装スパイが出没する事件が発生した。今はDJ(金大中大統領)の太陽政策を支える某新聞は、社説を通じて「夫餘に出没した武装スパイは(中略)これまで『太陽論』という韓国の対北認識がいかに一方的であったかを認識させる事件でもある」と書いた。
このような事実は「太陽政策」が決してDJの発明品でも、専売特許品でもないということや、李承晩(イ・スンマン)政権を除く歴代政権が、決して「強風政策」だけを行なったわけではないことを語る。従って今問題になるのは、DJの太陽政策の原則と方法であり、太陽政策そのものではない。
DJの太陽政策が確固とした安保態勢を保ちながら、北朝鮮の変化と南北関係の改善という目標達成に、どれほど忠実であったかということが問題の核心だ。
今回の西海での事件が、北方限界線の無効ないし外交の争点化を狙った北朝鮮の武力挑発だったのか、他の意図があったのかは分からないが、どのような理由であれ、金正日政権が韓国側に対して奇襲武力攻撃を行なったことは、北朝鮮の変化を導き出すためにこれまで譲歩に譲歩を重ねてきたDJの太陽政策の限界と問題点をさらけ出した。政府とその支持勢力が、真実をあいまいにしてはいけない。
DJの太陽政策は、他のすべての政策のように、功績もあり誤りもある。人的交流と交互理解の増進が最大の業績なら、現段階で最も問題になるのは、国民的合意を基にした党を超えた対北政策の推進の代わりに、批判者たちを「反統一勢力」であると罵倒して決めつける独善的な姿勢、そして推進方式においては、柔軟性と弾力性を欠いた点だ。その結果、状況によって強弱の両面戦術が適切に使いこなせる柔軟性を失った。
これは、南北首脳会談を掲げすぎた太陽政策の硬直性に基づく。このため、韓国の経済支援に北朝鮮側は銃撃で応じ、西海砲撃事件以後、金剛山(クムガンサン)観光事業は続けながらも、実際に飢えている北朝鮮の同胞たちが食べる米の提供は、棚上げにするという矛盾を生んだ。
今回の西海砲撃事件は、北朝鮮軍部のち密な計画による先制攻撃であるということは明らかであるが、金正日総書記など、北朝鮮の最高指導部の介入の如何は「不透明」というのが政府の見解だ。
しかし、いずれの場合にせよ、金正日総書記の責任は変わらない。北朝鮮の謝罪と再発防止の約束を得て、これから正しい対北政策を行なうなら、これまでの太陽政策の推進方式に対する真剣な討論が必要だ。






