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人生に答えはあるか

Posted February. 16, 2002 11:34,   

著者イ・ステは今年満51歳だ。社会的に大きな成功をつかんだ人でもなく、有名人でもない。ただ我々の周りによくいるような平凡な人だ。彼は慶尚北道(キョンサン)北道の安東(アンドン)で生まれ、高校の時ソウルに上京、ソウル大師範学部附属高校を経て、延世(ヨンセ)大法学科を卒業した。一時期、詩と小説を愛した文学青年でもあったが、卒業後は自分の専攻とはあまり関係ない初めての職場、国民健康保険公団に入社し、以来ずっとそこで働いている。

彼はこの時代を生きる平凡な父親だ。かつて息子に自分の習作の原稿の束を手渡したが、つき返され、子どもが聞く「殺せ!壊せ!」というテクノ音楽に身震いする。自分の子どもだが、自分とは違う存在だということを受け入れるのに苦労する普通の父親だ。

彼は夢より現実が重い中年だ。20余年前の古い随筆集を取り出してきて読み、昔のように感動が湧き起こらないとなげきながらも、この経済開発が残した、洗い流せない毒、今日の人間を利欲のいけにえにして縛りつけたせい惨たる世態を目の当たりにして、それに比べト相対的に原始時代だった50年代の精神的風景にしばし休息を求める疲れた中年だ。しかも、彼はまだ携帯電話を拒むアナログ人間の生き残りだ。

彼は青春と所有を賛美する声が強いこの時代において、改めて「真の大人になること」について悩む人間だ。大人は時間が経ったからといってただなれるものではなく、絶えず自分を正しい方向に導いていく過程の結果として得られるものだと話す。そして大きなもの、強いもの、力のあるもの、刺激的なものが世の中の中心で、そうでないものを威圧するこの時代において、小さいもの、弱いもの、素朴なものが我々の人生の真の根底であると小声で語りかける。

彼のことばには、脱俗ではない俗世の中で知恵と真理を語る求道者の声が込められている。我々は彼の本の中で、まるで泥の中の蓮の花のように貧しい霊魂の幸せを見出し、省察を実践し心を律する一人の成熟した大人に出会える。

金持ちになることを強要するこの時代に、彼にとっては「持つということ」が恥ずかしく無縁なことだ。50歳の大台に乗ってやっとソウルのマンションに「入城」するが、クリーム色のブラインド、バラ色の電球、ドアフォン、運動場のような居間など、すべてが不慣れでたまらない。10年以上育ててきた、見てくれの悪いソテツの木の首をキッチンバサミで切りながら、或いは18年間使ってきたタンスを捨てながら、32坪に代弁されるいじらしい人生の指標をまさかそのまま受け入れているのではなかろうかと自分に問い掛ける。

ベランダで冷たい夜の空気を吸っては、吐き出す彼の声は、むしろうめき声に近い。「考えればこの平穏な日常は、破壊と殺りく、さく取の日々ではないか。平和はすでに平和ではない。洗練されているものも洗練されているのではない。我々は巨大な『…の振り(pretend)』の中に生きている。長い間…の振りをするために…する振りをしているという事実さえ忘れている有様だ。」

彼が投げかける人生の哲学は、経験と思考で世の中を生きてきた人だけが語ることのできる知恵に満ちている。

浮遊する精神の貧しさが、かもしだした幼稚な社会、反省と懺悔というコードはそもそも遺伝子に存在しないかのように思惟を拒否する大人が多い社会。しかし世の中がいくら滅茶苦茶であろうと、韓国の地には純粋な魂に向かうことを日常においても忘れずに生きるたくさんのイ・ステたちがいる。だから、世の中まだ捨てたものではない。

大人になることの難しさ

イ・ステ著

「考えの木」



許文明 angelhuh@donga.com