今年こそ「いる」と言える師走かな。
毎年12月になると、熊本地方で作られた作者未詳のこの川柳(日本の定型詩の一種)が思い出される。
私の家族は、第2次世界大戦後、着の身着のままで満州から引き揚げた。父は58歳で亡くなる時まで一定の職がなく、生活は大変貧しかった。12月になると、あちこちから借金取りが押しかけくる。12月になったからといって、お金があるはずがなく、父はその間姿を暗ます。そのような父が、ある日新聞で見つけて、非常に気に入ったのが、まさにこの川柳だ。今年の12月くらいは借金取りが「いらっしゃいますか」と言ってきても「いる」と大声で返事をしたい、という父の心情そのものであるためだろう。そんな父も「いる」という返事ができないまま、私が高校2年生の時に亡くなった。
こんな家庭環境のため、私は学生時代勉強がよくできない「落ちこぼれ」だった。ただ本は一生懸命読んだようだ。小学校2年生の時、ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を読んで、ユゴーのような小説家になりたいと思った。やはり小学校の時に読んだ「プルタルコス英雄伝」に感銘を受けて、ユリウス・カイザルのような政治家になりたいと夢見た。さらに、阿蘇山のふもとに暮らしていたので、阿蘇の大平原に牧場を作って、馬に乗って牛を追うカウボーイになりたいという夢を抱いたこともある。結局、高校を卒業して村の農協に就職し、米の買い取りや肥料、プロパンガスなどを配達しながら、少年時代の夢とはかけ離れた生活をしていたが、夢を捨てることはなかった。
21歳の時、牧場を経営するという夢を抱いて、農業研修生として渡米し、肉牛農家で2年間実習した。その後、同年輩よりも6年遅れて米国ネブラスカ大農学部に入学した。学部では畜産学を専攻したが、政治の夢も捨て切れず、ハーバード大学の大学院に進学して政治学を勉強した。一度も政治学コースを履修したことのない外国人学生を奨学金まで支給して入学させてくれたハーバード大学の大胆さに今も感謝している。1997年に筑波大学から東京大学に移った時は「農協職員から東京大学法学部教授へ」とマスコミで話題になったが、実際に農協に勤めたのは2年足らずである。
私が米国で自力で大学教育を受けることができたのも、開放的で柔軟性に富んだ米国の教育制度のおかげである。国籍、年齢、経歴を問わず、機会はすべての人に平等に開かれなければならないという米国人の信条は、教育制度にまで影響を与えている。第2次世界大戦後、米国は自由主義陣営の盟主として、西側諸国の経済発展や安全保障を助けてきたが、米国の最も大きな貢献は、米国大陸が発見されて以来、世界のアウトサイダーに夢を与えてきたということである。
それと比べて日本では(恐らく韓国でも)大学で何を学ぶのかではなく、どの大学に入学したかが重要だ。受験戦争のため予備校が繁盛し、どの大学に進学するかは、両親がどれほど子供に投資したかに左右される。今では東京大学などの有名大学に入学できる学生は、社会的に上層部にいる人の子供が大半である。子供達は競争過程で自由に遊ぶことや読書を犠牲にし、一方、競争に取り残された子供達は生甲斐を無くして、学級崩壊が起きる。社会に敗者復活のシステムがないため、一度落ちこぼれたら、復活できないということを十分に承知しているからだ。
大学入試シーズンになって、様々な事情で進学できなかったり、試験に失敗した生徒たちを思うと心が痛い。将来、彼らが年齢に関係なく勉強したい時に勉強ができるように、大学の門戸を広く開け、社会も就職や昇進などの面で好意的に彼らを受け入れる敗者復活のシステムを作らなければならない。
落ちこぼれだった私にできる話しがあるとしたら、それは人間の可能性は無限だということだ。私が農業研修生として米国に渡ろうと思ったのは、阿蘇の大平原に牧場を持ちたいという夢があったからであり、ハーバード大学に進学したのは、政治学を学びたいという夢があったからである。受験に失敗しても夢を失わず、努力してほしい。人間の可能性は無限なのだから。
蒲島郁夫・東京大学法学部教授






