
私が通っている教会には、赤ん坊が初めて教会に出てきた日に、その子のために信者全員が祈る儀式がある。先週も赤ん坊のための祈りの時間があった。先ず、父親に抱かれた赤ん坊が母親と一緒に祭壇の前に出る。
牧師様が父親から手渡された赤ん坊を信者たちに見せる。おくるみに包まれた赤ん坊の顔がよく見えるはずがない。それでも、新しい生命を迎える人々の顔に喜びの笑みが浮かんでくる。牧師様は祈りを通して、新しい生命をその家庭に授かってくれたことに感謝し、その子によって家庭と社会が一層明るく暖かくなることを祈る。
そして、これからの人生がいくら険しい道程であっても、赤ん坊が闇の世界に嵌ることなく、希望の輝きをもって生きて行けるよう祈願する。新しい生命のために皆が心を込めて祈りを捧げるこの瞬間は、実に麗しい時間である。今は両親に抱かれ、安らかに眠る新芽のような生命が、この先生きていく中で遭遇するであろう人生の試練を思うと、さらに切実に祈らずにはいられない。この子は両親だけの手によって育まれるのではなく、私たち皆の祈りを以って育てることを誓いながら祈りは終わる。
祈りの中でも「私たち皆がこの子を育てる」という言葉が胸を打つ。この祈りが、祭壇の前の赤ん坊一人のための祈りではなく、世の中の全ての赤ん坊のための祈りに思えるからだ。この瞬間、赤ん坊への愛を込めて祈る全ての者の思いが一つになったのを感じる。同時に、世の中の全ての新しい生命が私たちと繋がっているのを感じる。
私たちは、我が子を自分の能力と世話だけで育てていると勘違いして、手塩にかけて育てている。ところが、子どもを育てるのはその両親だけではない。子どもは、その子が属している数多くの共同体の中で育つ。子どもと直接または間接的に繋がっている共同体の成員が、新しい生命を「共に」育てるのである。従って「我が子は自分で立派に育てれば良い」といった考え方は間違っている。自分がいくら正しい道に導こうとしても、私たちの社会が歪であれば、子どもは一人前の人間になり得ないのだ。
私たち皆が新しい生命と繋がっていることに気付き、ふと私の心の中に計り知れない不安がよぎった。世の中に自分の居場所を見つけることができず、一生流浪の身となって生きていく人々を数多く目にしているからこそ、子供たちの未来を憂えないわけにはいかないのである。
あの小さな生命が、世間の荒波に流されてはいけないのに・・・。自分に合った位置を見つけてそれぞれが輝きながら生きてくれればいいのに・・・。幼い生命たちが育っていく環境が索漠としていると思うと、胸が詰まる思いがしてならない。彼らは「トップだけが生き残り、最高だけが記憶される」という、情報化とグローバル化時代の非情なまでに厳しい競争の中で生きていくことになるだろう。
それでは、果してあの情け容赦もない競争の究極の目的は何だろうか。カネである。誰もが競争に打ち勝ってカネを手にしてこそ幸せになれると、声高に口を揃える。カネこそが幸せの基礎であり保障だと信じ込んでいるため、自ずと目にみえるのはカネしかない世の中である。つまり、カネと権力を握っては人を従えて支配することの魅力、威張ることの快感を味わせるために大人たちは子供たちを、早くからあの非情な競争の中に追いやっているのである。
人より多くを物にしようと争う世の中には平和というものがない。そして、平和が壊れた世の中に生きる人々は、金持ちであろうが貧しかろうが、高い教育を受けていようが受けていまいが、幸せにはなれないのだ。とすれば、私たちは子どもの幸せを望んでいながら、実際は幸せから後じさりしてしまう破壊的な競争の世界へと、子供たちを追込んでいるのではなかろうか。
私は、新芽のような初々しい子供たちが、自然に似た世の中で生きていく未来を夢見ることがある。自然の中では、数々の生命がそれぞれの美しさを秘めたまま、仲良く棲み分けている。急いだり焦らなくても時期が来れば、全てが自然のうちに成される。自然は、あらゆる生命を育み分け与えるだけで、何かを独占したり率いることはない。僅かでも、そのような自然に似た世の中を子供たちに伝えたいのである。
チャン・ミラン韓国アルトル社副会長






