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[オピニオン] 名刺の中の権勢

Posted October. 06, 2001 09:48,   

「高官の家の敷居ほど滑らかなものもない」というアイルランドのことわざは、権力者に寄生しようとする人間の本性は東西古今に変わりがないことを物語っている。資本主義が崇拝されている今日には、金の匂いを漂わせているお屋敷の敷居も滑らかになっているに違いないだろう。

もしかしたら、権力者の家には金力の持主が、金持の家には権力者が互いの敷居をまたぎ合いながら連中をなし、相手の敷居を光らせているかもしれない。権力者は金力を増やそうとし、金持は金に頼って権力欲を満たそうとすることは、心の貧乏な俗物の根性のためのようだ。

権力と金力の癒着が痛ましい没落につながるということは歴史から見ても、枚挙にいとまがないが、それは公正な法律の執行がなければできないことである。ところが、そのようなポストに上り詰めた人は自分は例外になるだろうと思っているのが問題なのだ。それは自分の権勢では法律ぐらいほしいままにすることができるだろうと思い込んでいるからだ。実際に、彼らの考え通り、この国では法律は政権を握った側にいかにも寛大しすぎてきたのである。対象者が誰かによって、法律の適用や執行が変わったりする国で、権力や金力の持主に癒着の誘惑から抜け出してほしいというのは甚だ難しい注文になる。

もう1カ月間も取りざたされている、金融不正事件の「李受湖(イ・ヨンホ)ゲート」もその一つに過ぎない。地縁などを利用して、一躍出世した権力者と成金が出揃って開いたパーティーの後の模様がどれだけ醜いものかを、まるで1枚の絵のようにはっきり見せてくれる。事業より詐欺に堪能な若い実業家とその隣に寄生していた組織暴力団や複数の政治家、またある与党議員が指摘した「一部腐った検察」や国家情報院および警察の高官らが、その騒がしいパーティーの主人公だった。

さらに、残念なことは事件が明るみに出た後の関係者の態度だった。彼らに正直さを期待したのが無理だったかもしれないが、嘘に徹したG&Gグループ会長の李容湖(イ・ヨンホ)容疑者の国会での証言は、ある小さな動物の悪賢さまで思い出させるほどだった。検事長まで上り詰めた人が、いんちき実業家に甥の就職を頼んだかどうかをめぐる問題で言葉を覆す様子は、そのポストに憧れている多くの凡人の心を限りなく悲しませた。

頼んだことはないというが、愼承男(シン・ナム)検事総長と安正男(アン・ジョンナム)前建設交通部長官の実弟の就職は、当事者の主張通り、はたして正当なものだったといえるのだろうか。検事総長の実弟でなかったら、6000万ウォンも金を渡してまで、入社を頼む実業家がこの世の中にいるものか。この問題について、愼総長は法的責任はないにしても、だからといって、国政監査の場で野党議員と一歩も譲らない勢いで舌戦を繰り広げるほど、堂々たる立場だと認めてくれる国民は数少ないだろう。

安前長官に対しても同じことがいえる。酒類販売業者の生死を左右できる権力を握っている国税庁の首脳ではなかったら、業界での実弟の立場は異なっていたに違いない。弟の問題と財産の形成過程に対し、安前長官は説得力に欠けた言い訳をしたり、言葉を覆したりするより、黙ってうつむいていたなら、辞任だけは免れられたのではなかろうか。そのポストに就くために、詰めの「税務調査」にできるだけ神経を使ったのに、もう「摩尼(マニ)山の精気」すら彼に背中を向けてしまった。

高官の兄は知らなかったといっているのに、多くの国民が愼総長と安前長官にそっぽを向く理由は何なのだろうか。名刺の中に権勢が入っている存在、つまり肩書きそのものが権力を象徴するポストに就いている人には権勢が少しでもささいなことに外へ漏れていくことを取り締まる責務もあると思う。親戚が権勢の名刺を売って回り始めると、その社会は挫折や憤りのため息で満たされるようになり、労働や努力を強調することはむなしくなるばかりだ。

18世紀の英国の経済学者、アダム・スミスは「権力者や官僚は非生産的労働者だ。彼らは公共の使いで、国民の労働生産物に支えられている存在だ」と語った。国民が苦労して国に捧げた労働生産物に基づいて立てられた権勢なら、それは個人の家族が裾分けするようなものではない。使いのために、集めてくれた「名刺の中の権勢」を取り締まることができないなら、彼は公認の資格もない人に等しい。

李圭敏(イ・ギュテ、論説委員)



李圭敏 kyumlee@donga.com