
ずいぶん前にドイツ語教本で呼んだハインリッヒ・べルの短編にこんなシーンがある。主人公の職業は橋に一日中腰掛けて、そこを通過する人の数を数えることだった。主人公がその日その日に集計した数字は、その橋の利用度と効率性を判断するために必要な統計資料だった。ところが、その彼に一つ困ったことは、人知れず恋していた「彼女」をその統計数字に含めなければならないということだった。だから、彼女がずっと向こうに見える頃になると、主人公は慌てたあまりにそれまで数えた数字を忘れてしまう。
よく理解できない言葉をたどたどしく読み上げ、記憶の中である程度変形し、忘れかけている部分もあるだろうが、愛を数値に計算できない者の切なさは今も私の記憶に奥深く刻まれている。愛という感情のように、私たちの人生にはどうしても統計化できないものが少なくない。しかし、正確な統計だけを重視する者にとって、主人公の当惑は単なる統計の誤差を作り出す不必要な要素に過ぎないだろう。最近のように、統計と物証を鼻の先に突きつけなければ認めない、立証や説明が不可能なものについては到底信じようとしない世代にはなおさらそうだろう。
ところが、統計とは果たして客観的なものだろうか。統計の純度を全面的に保証できる仕掛けは果たしてあるのだろうか。改めて反問してみると、答えはそう簡単ではない。統計を扱う人の道徳と公正さが前提になければ、それは特定の利害関係と目的のために悪用され、ねつ造される恐れを常に持っているからだ。だから、こんな笑い話もできたのだろう。嘘には三つの嘘があるという。途方もない嘘、事実のような嘘、そして統計。恐らく統計の構成を言いたいがために出てきた笑い話のようだ。
それを証明でもするかのように、つい最近、労働部傘下の雇用安定センターの統計が45%も膨らましてねつ造された事実が明らかになり、すべての国民を唖然とさせた。失業率が何%に落ち込んだという騒がしい宣伝文句を見るたびに、実際の生活ではまったくそうではないと感じていたのに、今になってはその理由がわかった。引き続き、これは私の勘ぐり過ぎかも知れないが、統計庁が集計した労働者実質賃金が計算ミスで、間違って発表されたという事実も明らかになった。統計庁さえもこんなありさまでは、今後政府が発表する統計をいったいどこまで信じたらいいのかわからない。正確さを生命とする統計がこのようにねつ造されたとすれば、これを基にして打ち立てられた様々な経済指標や政策までもその現実性を保証できかねないのではないだろうか。
もちろん人間がすることだから、そこには誤差というのも有り得る。いや、もしかすると、私たちが客観的だと信じている数学や科学というのも、人間の数多い間違いの上に積み上げられた学問なのかも知れない。ジャン・ピエール・ランタンの「われ思う、故に、われ間違う:錯誤と創造性」はまさに、こうした洞察を見せてくれる本だ。ランタンは合理的で客観的に受け入られている科学原理が実は、失敗と錯覚から始まったものだと力説しながら、錯誤の科学史を再構成した。ランタンには研究者の頭脳と心の中でぶつかり合う欲望と感情、先入観さえも創造的な錯誤を起こす要素として受け止めている。
しかし、今回明らかになった統計ねつ造は小説の中のロマンチックな錯誤でも、科学を発展させてきた創造的な間違いでもない。強要された激しい競争の中で、目に見える実績中心の官僚制が生み出したとんでもないコメディーなだけだ。そして、こうした事例は韓国社会で通用されている統計の構成を表わす氷山の一角に過ぎない。このように、愛と発見ではなく、隠ぺいと妥協のために間違いを犯すとなれば、統計はいかなる兵器よりも危険なものになってしまうのだ。
こうした危険には、統計を扱う者だけでなく、統計をあまりにも盲信してきた受け入れ側にも責任がある。統計に対する盲信は、時には巨大な幻覚を作りだし、その幻覚は無責任と非合理性を生む温床になるからだ。「数の海」と言ってもいいほど、統計があふれている世の中に住んでいるが、その中でたびたび人間が排除され、現実を忘却していると感じるのはなぜだろうか。技術それ自体の精巧さよりも、技術を扱う者の倫理に対する省察と悩みが惜しまれる時代だと感じるのは、単に統計に限られた問題ではないはずだ。
ナ・ヒドク(詩人、朝鮮大学教授)






