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[オピニオン]上手に年取るということ

Posted August. 17, 2001 10:07,   

人はだれでも死にます。当然のことです。命あるものはいつか死にます。にも拘わらず、私たちはこの自然現象に対して、非常に戸惑いを感じます。死が恐くて死は避けられないものか、いっそのこと死ななければいい、死んでもまた生き返ればいいと考えます。それが私たちの気持ちです。えてして、人類の文化はこうした死に対する考え方をそれぞれの軸として回っている現象と言ってもよいでしょう。

ですが、死はいつでもどこからでも勝手にやってくるものです。年とは関係なく、はなはだしくは健康とも関係がありません。死は自分勝手にやってくるのです。でも、概して死は、老年になって具体化し、現実の問題となります。年を取ると、生理的な身体構造が回復不可能な退行過程に入ります。体がこうなると、大低気持ちも同様になります。そしてその果てが死なのです。よって、年を取って行くにつれて、私たちは死を考えざるをえません。

でも、人々は死を予想しながら人生を考察することは、敗北主義の典型だと判断したりします。年を取るほどより若々しく生きようとしてこそ、人生らしき人生をおくられるのだとも言います。その通りだと思います。

死を通して人生を考えると、暗い灰色の人生になるでしょう。生き甲斐と生きる意味を見出す余裕がないからです。しかし、絶対自分は死なないと、気負って生きるのも惨めな人生に思えます。当然の結果を違うと否定する様子や、自分の人生の終わりを見通すこともできない愚かしさがまた、そのように思えてきます。

だとすれば、死はどのようにして迎えるべきか。すなわち死の準備をどのようにすべきなのか、ということは、その人の人間らしさを判断する基準になり得ます。

死は人生を締めくくる最後の段階で、人生は死を産む懐妊の期間だからです。自分の死をあらかじめ整理しておかないと、人生が醜くなります。また、人生がしっかりしていないと、醜い死に方をするだろうと思います。そんなふうに生きたくはありません。

人間としての自尊心のためにも、そんな風にしてまで人生にしがみつきたくはないものです。ですから、私たちは上手に年を取らなければなりません。美しく年を取ることこそ、死を準備することに変わりないと思います。それがすなわち、人生を完成させることでもあります。

ところで、上手に年取るためには、次の二つを実行に移さなければなりません。一つは、今でなければできないことを急いで実行することです。先送りしたりあきらめたりしてはいけません。時間がいつまでもあるわけではありません。今、後回しにしてしまうと、もう二度とできなくなります。年を取るということは、死に近づいているということだからです。

明日死ぬにしても今日しなければならない仕事ならば、今ここでその仕事を終わらせなければなりません。今正しくなければ、もう二度と正しく生きるチャンスはありません。今日愛して許しを請わなければ、永遠に得られなくなるかもしれません。 上手に年取るためには、後回しなど、しないことです。でなければ、そうした人生があとに残すものは、醜い死だけです。恥ずかしいことです。

上手に年取るためにしなければならないもう一つは、以上のこととはまったく違うものです。葛藤を感じるものでもあります。死が近づいているのに、まだ成し遂げられなかったことを全うしようと足掻いている様子は、時には人生に対する意志や高尚な徳目というより、動物的な欲に過ぎない場合が少なくありません。

したがって、人間らしい人間として人生を締めくくろうとするなら、自分ができなかったことを自分ではない他の人生の主体がいつか実現してくれるだろうと信じる余裕や寛容さで、

この貪欲さを改めるべきです。それが私たちが上手に年取るためにしなければならない二番目のことです。

その寛容さは、これまでの人生で自分の至らなさと貪欲さに対する懺悔です。同時に、死を契機に感じ取れる、生きている人々に対する信頼でもあります。したがって、寛容さが老年を彩るようになれば、私たちは人生の最後の段階で、これまでできなかった寛容を見せることも、素直に自分を赦してくれることを願うこともできます。 終りに、すべての人を信頼してこそ、年老いる事や生きる事が自由になります。そしていよいよ、私たちは自由に死を迎える事が出来るのです。年老いはこうでなければならないと思います。いや、こういう年取り方がしかるべき姿なのです。

私たちの平均寿命が驚くほど長くなったという話を聞き、自ら年を取るという自我意識が現実のものになり、なんとなく死を、年取る事をそして人生について考えてみました。

鄭鎭弘(チョン・ジンホン、ソウル大学宗教学教授)