
5回生死をさまよい、6年間監獄生活を送り、10年間の亡命生活と年金生活・・・。金大中(キム・デジュン)大統領は、民主化闘争時代を経てきた自分の苦難に満ちた人生航路をこのように描写する。彼の阜サ通り、彼の人生は民主主義と人権、分断された祖国と統一のための闘争史だと言えるだろう。全羅南道シンアン郡のハイドという村で、貧しい小作農家の次男として生まれた金大統領は、木浦(モクポ)商業高校を卒業した後、事業を始めたが、50年代の末になって政治家への道を歩み始めた。彼が事業家から政治家に変身したのは、当時の李承晩(イ・スンマン)独裁に対する反感のためだった。
63年に6代国会議員選挙に当選し、若い野党政治家として注目され、成長した金大統領は、70年、シンミン党の政党大会で40代旗手論を掲げた金泳三(キム・ヨンサム)、李哲承(イ・チョルスン)と争った結果、大統領候補に当選した。当時、朴正煕(パク・チョンヒ)政権が3選改憲(69年)によって長期執権の道を整えた後、72年終身大統領を目指した維新体制に突入する直前だった。71年の大統領選挙で金大統領は46%の指示を得た。当時、彼の善戦は逆説的に、朴正煕(パク・チョンヒ)政権が彼に対する本格的な弾圧を行う直接的なきっかけとなった。
73年8月には中央情報部(現在の国家情報院)要員達によって、東京のど真ん中で金大統領が拉致される事件が発生した。これに続き、維新の動きが激しくなった76年、彼は3・1民主救国宣言事件で拘束され、5年の刑を宣告された後、78年に釈放された。79年、朴大統領が暗殺された後、80年の5・17クーデターによって政権を掌握した新軍部は、再び金大統領を内乱陰謀事件と関連させ、死刑を宣告した。
82年に釈放された後、アメリカ亡命を試みた彼は、85年祖国の民主化闘争のために命をかけて帰国を強行したが、すぐに家宅軟禁された。
金大統領の苦難の歳月は、87年6月の民主化抗争の勝利によってひとまず終止符が打たれた。その時まで彼は激しい弾圧を受けたにもかかわらず、決して権力と妥協しない政治家の一人に挙げられた。
80年の軍事裁判で死刑宣告を受けた時、金大統領は大統領だけ除けば何でもやらせてやるという新軍部人士達の懐柔を断固として拒否した。祖国の民主化と人権のために疲れを知らない彼の熱情はその時既に国際的に認知された。
しかし、「万年ノーベル賞候補」というレッテルを剥した決定的な功績は、最後の冷戦地帯である朝鮮半島に、平和と和解の時代を到来させたことであった。97年に憲政史上初めて、水平的な政権交替を行い、大統領に就任した金大統領は、自分が主張した対北包容政策を一貫して進めることにより、金剛山観光を実現させたのだった。今年6月15日に分断以降初めて、南北首脳会談を成功させることにより、南北間の関係を対決から和解へ、相争から相生への大転換へと導いた。6・15南北共同宣言以降、南北間には △離散家族対面 △京義鉄道連結着工 △離散家族面会所設置推進 △国防相会談 △白頭(ペクトゥ)山・ハルラ山相互観光などの懸案が列を成している。
北東アジアの火薬庫だった朝鮮半島で起こり始めた、和解と交流の流れは、北・米関係の氷解に繋がり、北東アジアの緊張緩和に新しい展開をもたらした。金大統領のノーベル平和賞受賞は、40年余りに渡る民主主義に対する不屈の献身と、大統領就任以降彼が力を注いできた「朝鮮半島の冷戦解体作業」に対する国際社会の当然な保障だということが出来る。






