Go to contents

再び向き合った「感染症と戦争の時代」の風景

再び向き合った「感染症と戦争の時代」の風景

Posted May. 21, 2022 09:05,   

Updated May. 21, 2022 09:05

한국어

日本近代画家の中村彝(つね、1887~1924)は、死に近い人生を送った。彼は幼年時代、家族を次々と失い、20歳で一人になった。両親は病気で亡くなり、日露戦争に参戦した長兄は戦死し、次兄は事故でこの世を去った。全世界に広がった結核は、中村を一生苦しめた。結核で37歳で亡くなった彼は、死ぬ1年前に、代表作「頭蓋骨を持てる自画像」(1923年)を描いた。微熱で両方の頬が上気したまま、何の抵抗もなく頭蓋骨を持った男。死を淡々と待つこの男性は、中村自身だった。

「私の西洋美術巡礼」と「私の朝鮮美術巡礼」を書いた著者は、自分が生まれ育った日本、そのうち日本の近代美術に目を向けた。中村をはじめ、本に紹介された関根正二(1899~1919)など、美術家7人は1920~1945年に集中的に活動した。当時、スペイン風邪と結核で多くの人が命を落とし、日本は日中戦争と太平洋戦争を行い、第2次世界大戦に飛び込んだ。疫病と戦争の時期に人生と死について悩み、戦争の真ん中で政治宣伝の下手人を自任した芸術家たちの間で普遍的な美の価値のために戦った「異端児」7人を紹介する。

本を貫くテーマは死だ。彝が死ぬ1年前に頭蓋骨を持つ自画像を描いたように、疫病に苦しめられ早世した近代画家たちは早くから死を予感し、これを作品として表出した。20歳で結核とスペイン風邪で死んだ関根は、10代の時から死に打ち込んだ。19歳で描いた「信仰の悲しみ」(1918年)は、彼が公衆便所の前で見た女性行列の幻視を描いた絵だ。女性たちは明るい色のワンピース姿だが、葬儀場で死を哀悼する人々の行列を連想させる闇が濃く敷かれている。彼は、「孤独と寂しさのために、誰にでも祈りたい気分になる時は、あんな女性たちが三々五々ペアを組んで私の目の前に現れる」と話した。

多くの芸術家が戦意を高揚させる作品を描いた時流に抵抗し、芸術家の良心を守った画家たちも紹介する。靉光(あいみつ、1907~1946)が代表的だ。日本が国家総動員法を制定し、侵略戦争に突入する直前だった1938年、彼は正面を直視する目玉を描写した「眼のある風景」を描いた。著者はこの作品について、「荒野の真ん中の正面を射る、赤く充血した巨大な目玉は、今後直面することに対する暗示のようだ」と説明する。「軍部に協力して生き残らなければならない」と話す同僚の画家たちに、靉光はこのように話したという。「それでも、私は戦争画は描けない、どうすればいいの?」

コロナ禍が2年以上続いており、ロシアはウクライナに侵攻して罪のない市民が死んだり怪我をしている。本の背景である1920~1945年は、スペインイン風邪と結核という疫病、そして世界大戦の暗雲が垂れ下がった時代だった。感染症と戦争、暴力が続いている今とあの当時があまりにも似ているため、100年以上の作品が投げかける考えるべきものは、なおさら強烈に感じられる。


金哉希 jetti@donga.com