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日本、1950・60年代の外交機密文書公開

日本、1950・60年代の外交機密文書公開

Posted December. 24, 2002 22:48,   

1950年の韓国戦争ぼっ発後に定着した東西冷戦時代に日本の外交はどう動いただろうか。日本の外務省は、1950、60年代の機密外交文書を24日、公開した。以下は主な内容のまとめ。

▲北朝鮮に対する接触禁止(55年)〓日本政府は55年10月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対し、貿易などあらゆる接触を認めないことで方針を固めた。これは当時、国交正常化の交渉中だった韓国側の強い要求によるものだ。当時は北朝鮮と日本間の関係が活発に行われた時だ。

韓国側は「敵の北朝鮮と関係を結ぶなら、韓日関係を断ち切る」とし、国交正常化の前提条件として、北朝鮮との関係断絶を求めた。日本は当時、 韓国が米国など自由陣営の30カ国、北朝鮮はソ連などの共産陣営11カ国の承認を受けたことを踏まえ、南北(韓国・北朝鮮)の重要性を見据え、北朝鮮に対する接触禁止の決定を下した。

▲強制連行された中国人死亡者、縮小発表(60年)〓日本は太平洋戦争中、日本に強制連行した中国人3万8000人のうち、6800人が死亡したことを確認したが、60年4月発表の時は、1893人に縮小して発表していた。

外務省は日米安保条約問題について、中国側が強硬な立場であったため、死亡者数を事実とおりに発表すると、賠償要求につながることを憂慮した。強制連行された中国人は、全国135の炭坑などに配置され、残酷な労働を強いられ、死亡したが、日本はそれ以降63年7月まで、4回にわたって、死亡者リストを追加し、結局6401人のリストをすべて公開した。

▲「2つの中国」承認検討(61年)〓台湾を中国の唯一の合法政府とみなしているなか、61年3月、中共も承認する問題を極秘裏に検討した。台湾とも国交を維持しようとする「2つの中国」政策で、東西冷戦の下で、反共をかかげ、中国の封じ込め策に乗り出した米国とは相反する外交路線だった。続いて、同じ年、池田勇人首相が訪米、中共の国連加盟を認めることを提案したが、ジョン・F・ケネディ米大統領が難色を示した。

▲ニクソン、平和憲法の改正を打診(67年)〓ベトナム戦争中の67年4月、米政治家のリチャード・ニクソンが訪日し「戦後20年が過ぎたので、憲法を見直してもいいのではないか」と 佐藤榮作首相に話しをもちかけた。憲法改正を通じての再軍備で、アジア安全保障の中核となってほしいとのことだった。しかし、佐藤首相は「平和と民主主義にもとづく憲法を変えることは難しい」と断った。ニクソンは、2年後、大統領になり、続いてアジアで米軍を撤退させるとの内容を盛り込んだ「ニクソン・ドクトリン」を宣言した。



李英伊 yes202@donga.com