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[東亜広場]「神の国」 不吉な賛歌

Posted April. 27, 2001 16:22,   

日本が不吉な動きを見せている。新首相のあだ名である「変人」という言葉を借りて表現するなら「変国」になりつつあるとでも言おうか。最近、韓国、中国、アメリカ、そして世界がそんな目で日本を見つめている。

侵略戦争を引き起こし、ついにはその戦争に負けて憲法を変え、軍隊も排除したのが日本という国だ。それが半世紀前の日本の歴史だ。が、日本は今、それを覆す動きを見せている。「侵略と植民地支配は自存自衛のために仕方ないことだった」、「日本が犯した罪はたったひとつ、戦争に負けたことだけだ」と言い張る。反省する必要も、謝罪する必要もないと意地にかかっている。新総理は集団的な自衛権の行使(軍隊動員)もあり得ることであり、靖国神社への参拝も公開的に行うと公言した。

「マッカーサー率いる日本占領連合国軍以来の『歪んだ歴史観を書き直そう』」をキャッチフレーズに掲げる「新しい歴史教科書をつくる会」が今となって脚光(?)を浴びている。「歪んだ歴史教科書」を主導した問題の組織だ。だとすればその集まりは歴史学者が主軸となっているのか?そうではない。それもまた不自然だ。

日本の知識人社会の「右翼派」の先鋒に立っているのは文芸家と評論家だ。もちろん様々な専攻による職業分野の下、右翼に携わっている。しかしその先鋒に立って世間に頭角を現しているのは、文学を習い、耽美的な情緒と主観的な解釈の職業の枠の中で育って成功を収めた人々であることに私は注目する。

「新しい歴史教科書をつくる会」の先頭に立った西尾幹二は、東京大学でドイツ文学学科を卒業したドイツ文学学者だ。彼が執筆した「国民の歴史」という日本礼賛論はベストセラーとなった。日本の視覚から歴史を書き直すという、いわゆる自由主義史観の主唱者「藤岡信勝」は北海道大学の教育学科を卒業した教育学の教授だ。歴史学に骨を埋めた学者ではない。彼は日本が「自虐史観」、「謝罪の歴史」から脱皮しなければならないと叫ぶ。それはまるで「自讃の史観」でなかったがために、日本が停滞に陥ったとでも言っているかのようだ。従軍慰安婦を教科書に取り入れてはならないというのが、このアマチュア史学者の持論だった。

「日本の3百万の死者の哀悼を通じて(その上で)日本により命を落としたアジアの2千万人の死者の哀悼にいたる道は可能か」と論じた加藤典洋は、東京大学の文学部を卒業した文芸評論家だ。

極右発言を事ある度に繰り返しながら庶民の票を得てきた東京都知事の石原慎太郎は、「太陽の季節」という小説でスターダムにのし上がった作家出身の政治家だ。また、「日露戦争での日本の勝利は、有色人種が白人に勝利した最初の戦争」だと自讃する渡辺昇一はロンドンで留学生活を送った英語学者だ。

正統派の歴史学者、哲学者、国際政治学者は皆どこへ行ってしまったのだろうか。なぜよりによって事実の記録や証拠、客観的な評価が体に染み込んだ日本を代表するに値する史学者ではなく、文学者のような繊細な感性を持つ扇動者達が、一方的な資料の解釈・検証が確認されていない仮説を歴史の教科書に盛り込めと意地を張れるのであろうか。

私はここでユダヤ系哲学者のハンナ・アレントの鋭い分析を思い浮かべる。彼女はドイツのナチズムを研究した名著「全体主義の起源」でこう述べている。ナチの胎動期に太鼓を叩き、暴徒を集めたのは、他でもないペイソスに訴えるかける文学生徒らだったことを。文学の本流にも加わることのできなかった異端の役立ずの知識人がナチの旗を掲げたのだと。

ドイツのナチを引き起こした狂信的な文学者達と分けが違うと、右翼の旗を掲げ、その名を轟かす右翼の名士達は反論を提起するかもしれない。私もどうかそのような悲劇が繰り返されないで欲しいと望むばかりだ。しかし予感は不吉この上ない。

アジアと世界を見つめ、人類と文化を語る声が日本に全くないわけではない。しかしそう叫ぶ教授達と市民団体の消え入るような声、孤独な絶叫は完全に除け者扱いされ、日本の大衆の耳からも遠ざかっている。「右傾化一辺倒」を先導するラッパの音と「神の国」の讃歌だけが列島に響き渡っている。

「日本が万一、(相互尊重主義)の人倫を踏みにじれば、世界は日本に背を向けることになるだろう。ならば滅びるのは日本のはずだ」「日本人は己に有利な道徳だけを前面に掲げ、日本を正当化する卑怯な態度を恥じるべきだ」。80年以上前、柳宗悦はそう語った。しかし、その声は踏みにじられ、日本は敗亡へと突き進んだ。



金忠植(キム・チュンシク)記者 seescheme@donga.com