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李萬燮氏はなぜ党籍を有しない国会議長になったのか

李萬燮氏はなぜ党籍を有しない国会議長になったのか

Posted May. 11, 2024 08:43,   

Updated May. 11, 2024 08:43

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国会法は、国会議長の党籍保有を禁止している。この国会法が公布されたのは2002年3月だ。それまでは国会議長は大統領が内定することが多かった。国会議長は権力の顔色をうかがわなければならなかった。国会議長が強行採決の先頭に立ったこともあった。

故李萬燮(イ・マンソプ)元国会議長が民主自由党所属で1993年に第14代国会前期の議長になった時も、金泳三(キム・ヨンサム)大統領が指名した。新千年民主党に党籍を移した李氏が2000年に第16代国会前期の議長になった時から、李氏は議長は党籍を持つべきではないと強調し始めた。李氏が議長だった2002年3月、国会議長の党籍保有を禁止した国会法が公布された。その直後、李氏は新千年民主党の党籍を放棄した。当時の記事は、李氏が1948年の制憲国会開院以来、史上初の無党籍国会議長になったと記録した。

李が国会議長の党籍放棄を主張した理由を聞いてみよう。2002年4月号の『新東亜』のインタビューだ。

「国会議長が大統領府の顔色をうかがわず、また自分が所属する党の顔色をうかがわず、正しく国会を運営できる制度的裏付けを設けたのです。国会を民主的に運営できるよう進歩したのです」

李氏は、「所属政党の顔色をうかがわないということができるのか」という質問にも、「党籍を離れても、私が帰る党を考えれば不公平かもしれないが、それでも離れないよりはましだ」と話した。

李氏は、1963年の第6代国会で議員となった。生涯で心に残っているのは強行採決だったと回顧した。そのため、生涯の願いは大統領府や所属政党の目を気にせず、公正な社会を見ることだという。

実際、李氏は、金泳三氏が任命したにもかかわらず、第14代国会議長の時、1993年12月の法定期日内に政党法、安企部法、通信秘密保護法と、予算をどうにかして処理しろという金泳三氏の要求を拒否した。大統領府の昼食会で金泳三氏に、「昔は強行採決に反対していたのに、なぜそうするのか」と言った後、席を立った。李氏は金泳三氏が要求した期日を過ぎて与野党合意で通過させた。議長として最もやりがいを感じたのはその時だという。

李元議長のあの演説を考えると、政治は数十年の間、むしろ退化したという印象を拭い去ることができない。

今、第22代国会議長選に立候補した最大野党「共に民主党」の6選、5選の重鎮議員たちは、議長の政治的中立性を放棄し、李在明(イ・ジェミョン)代表の政策を推し進めると大っぴらに言っている。自分が親明(親李在明)側の人物なので議長になるべきだと言う。強硬な親明グループで今や民主党の最大派閥となった「民主革新会議」の支持を得なければ議長になれないと、彼らの支持を訴える。国会議長が李氏の顔色を伺ってもいいという露骨な宣言だ。

民主党内では、「李氏の意中は誰にある」「心は完全に誰かにある」「だから誰かが出馬を断念した」「李氏の意中がすぐに議員たちに伝わるだろう」という言葉が公然と出てくる。

国会議長無党籍を成し遂げた李萬燮氏のこだわりを振り返ると、今の「操り人形宣言」が哀れだ。ある元議員は、「今、韓国には政党がなくなった。強硬ユーチューブメディアの時代が来た」と話した。強硬ファンダムに寄りかかり、政党は機能不全状態ということだ。

李氏は、第16代国会就任演説で、「ガベルを叩くたびに、一度は与党を見て、一度は野党を見て、最後は国民を見て、良心のガベルを叩く」と話した。李氏は、ガベル自体は軽くて簡単に叩くことができると話した。第22代国会議長はガベルを叩く時、どこを見るのか、ガベルの重さをどのように感じるのだろうか。