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悲しくても、怒りがこみ上げても「死を選ばず、生き抜こう」 ウォニョン僧が語る希望

悲しくても、怒りがこみ上げても「死を選ばず、生き抜こう」 ウォニョン僧が語る希望

Posted December. 09, 2025 11:35,   

Updated December. 09, 2025 11:35


「生きていれば、弱くなる時も、つらい時も、悲しい時もあります。でも、それが永遠に続くわけではありません。だから、あまり心配しないでください。そうだからといって、死ぬわけにはいかないでしょう」

経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で22年連続自殺率1位の韓国。ついには最近、国会で市民が直接参加する自殺予防文化運動「命ある限り生きよう」まで発足したほどだ。最近「それでも死ぬわけにはいかない」(プルグァン出版社)を出版したウォニョン僧(大韓仏教曹渓宗・青龍庵住職)は4日、東亜日報とのインタビューで「仏典に『獅子身虫』という言葉があります」と切り出した。この本は、風が通るように窓の隙間を少し開けるだけでも蒸し風呂のような部屋で耐えられるように、人生を極端に追い込まず、少し流してあげようというメッセージを込めている。

――獅子身虫、「獅子の体の中の虫」という意味でしょうか。

「百獣の王である獅子を、いったいどんな獣が襲って食い尽くせるでしょうか。けれども獅子が死ぬと、その死体をすべて食い尽くすのは、外から来た獣ではなく獅子の体の中から生じた虫なのです。ひとりで怒っている時の自分を、じっと見つめたことはありますか」

――私が、私自身をですか。

「はい。たいてい最初は小さな思いから始まります。ところがだんだんエスカレートしていき、しまいには自分が怒っている声にまで怒るようになる。自分を孤立させておいて、一人よがりの考えに浸り、思い込みにはまっていくのです。だから『死にたい』と言って訪ねてくる人の中には、少しの慰めと少しの勇気を後押ししてあげるだけで、楽になって帰っていく人が多いのです」

――死ぬほど苦しい出来事もあるのではないでしょうか。

「そんなこともあるでしょう。ただ、前が見えない人が、低い枝を必死に掴んでぶら下がっているような場合も本当に多いのです。手を離しても危なくないと、そばでいくら伝えても、その言葉を信じるのは簡単ではない。手を離したら底知れぬ崖下に落ちてしまう気がして、ますます強く握りしめる。そうして結局、疲れ果てて、挫折と喪失にまみれた苦しみの中でもがきます。私もそうでした」

――極端な選択を考えたこともあると聞きました。

「怒りを消化できず、ただ溜め込んでいた時期がありました。内側ではぐつぐつ煮えたぎり、怒りがこみ上げて歯を食いしばったり、拳をぎゅっと握りしめたりもしました。でも修行者なので誰にも言えず、人前ではいつも笑顔で接していたのです。そうやって内側の怒りが少しずつ自分を食い荒らしていたある日、ふと、思わず口をついて出た言葉がありました。『それでも、死ぬわけにはいかないじゃないか』という一言でした。不思議なことに、この思いが、怒りで固まっていた私の心を希望へと変えてくれました」

――「あまりに苦しければ、手放してもいい」ともおっしゃっていますが……。

「誤解してはいけないのは、少しやってみてしんどければすぐに諦めろ、という意味ではありません。最善を尽くしてもだめなら、最後までそれにしがみつき、苦しみの中に居続ける必要はない、ということです。すべてを投げ出せという意味でもありません。いくつかは、手放してもいいのです。もし何かが自分に怒りや苦痛、さらには極端な考えまで抱かせるなら、まずはそれを下ろして心を冷ます必要がある。風が通るように空けておき、開いておけば、つらいことも、やがて時がくれば自然と過ぎ去っていくでしょう」


李鎭求 sys1201@donga.com