1951年5月6日。春の暖かさはなく、戦争の惨禍だけが色濃く漂うその日、黒い肌の男性1185人が釜山(プサン)港に降り立った。エチオピア皇帝の近衛隊だった「カグニュー部隊」だ。エチオピアから韓国まで海上で過ごした日数は24日。皇帝ハイレ・セラシエ1世は、祖国を離れる兵士たちにこう語った。「勝つまで戦え。さもなくば死ぬまで戦え」
当時、アフリカのエチオピアが韓国戦争に参戦したのはやや意外なことだった。韓国と直接的な利害関係がなかったからだ。韓国国防部などが韓国戦争を分析した書籍では、現実的な観点から「集団安全保障に対するエチオピアの歴史的経験」が派兵の理由として説明されている。イタリアの植民地支配を受けたエチオピアは、失った領土エリトリアの回復と軍の近代化のために、米国など国際社会の支援が切実だった。韓国戦争はその機会を提供した。
こうして派兵されたエチオピア軍約6千人の参戦は、1954年7月10日まで続いた。江原道(カンウォンド)の華川郡(ファチョングン)と楊口郡(ヤンググン)、京畿道漣川郡(キョンギド・ヨンチョングン)一帯が彼らの主な戦場だった。厳しい冬の寒さは一度も経験したことがなかったが、彼らは銃を手に最後まで戦った。戦闘は253回に及び、一部の記録ではエチオピア軍がすべての戦闘で勝利したと伝えられている。ほとんどの戦闘で勝ったという評価もある。優れた戦功を挙げたことは確かだ。
彼らは1954年に撤収するまでに121人が戦死し、536人が負傷した。「コリア(Korea)」という名前すら馴染みのなかった彼らは、遥か遠い異国で命を捧げた。結果的にエチオピア政府は一定の目標を達成したとみられる。派兵直後にエリトリアを取り戻したからだ。
数字で記録された歴史の背後には、私たちが忘れてはならないエチオピアの人々の涙がある。韓国戦争75年を迎え、浦項(ポハン)ヤンポ教会などの招待で初めて韓国を訪れたマミテ・フンデ・センベタさん(73歳・女性)は、父親の顔を一度も見たことがない。彼女が母親のお腹の中にいた時、父親は韓国へ行き、華川での戦闘が彼の最後の戦場となった。父の不在は家族の傷として残った。センベタさんは1974年に皇帝が失脚し共産主義体制に移行した後、「反逆者の娘」という烙印を押されて生きなければならなかった。
共に韓国を訪れた参戦勇士ティラフン・テセマ・ガメさん(100歳)の人生も同様だった。彼は「戦争が終わって帰国すると部隊は解体され、我々は散り散りになった」とし、「政権が変わった後の生活は惨憺たるもので、言葉では言い表せない」と語った。ガメさんの証言は、戦争英雄の帰還が必ずしも栄光に繋がるわけではないことを示している。
時が流れ、韓国は援助を受ける国から援助を提供する国になった。エチオピアにも少なからぬ支援を行ってきた。しかし、参戦勇士とその子孫への直接的な支援はまだ道半ばだ。エチオピアで30年間ボランティア活動を行い、今回の参戦勇士とその子孫の訪韓を支援したハ・オクソン宣教師は、「参戦勇士とその子孫たちの多くが、今も古びた2坪の家で苦しい生活をしている」と伝え、「継続的な関心と支援が必要だ」と話した。カグニュー部隊員とその子孫にとって、韓国戦争の傷跡は今もなお癒えていないのだ。
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