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Posted February. 25, 2023 09:00,   

Updated February. 25, 2023 09:00

한국어

私は誰か。私たちは生まれてから死ぬまでこの問いを何度も投げかける。質問は目の前にあるが、答えは隠れている。私は誰か。質問は一つなのに、答えはどんどん変わっていく。私は誰か。質問は最初からあったのに、答えはあったりなかったりする。

ライプニッツという哲学者は、私、あなた、すべての存在はしわだと説明した。幾重にも重なったしわのように、存在はその中に無限に異なる姿を含んでいるということだ。ライプニッツの言葉が正しければ、「私は誰か」の答えは一つであるはずがない。その答えは鏡の中にあるかもしれないし、想像の中にあるかもしれないし、心の中にあるかもしれない。私が抱いている、抱いていたすべての私が集まって今の私になっているからだ。

つまり、私も知らなかった、私の中に隠れていた、私が密かに望んでいた、実はすでに知っていた私がいるかもしれないということだ。韓性祺(ハン・ソンギ)詩人が、詩人「韓性祺」でなく、人間「韓性祺」でもなく、父や夫「韓性祺」でもなく、小さな駅である「韓性祺」を夢見たように。ここに登場する静かな風景は現実ではない。それはその人の魂の中にある。ここに登場する小さな駅も現実ではない。そこ、遠く、離れたところにある駅は、韓性祺の中にある隠れた韓性祺だ。このような小さな駅を自分の中に抱きしめながら生きた詩人は、どれほど満たされたのだろうか。数え切れないほど多い私の一つのかけらを探すために人は詩人になるのだろう。