「国際社会では、超過滞在した移住民を『不法滞在者』と呼ぶことは、彼らを『不法』な存在と烙印を押して嫌悪を助長するため、『未登録』『非正規』のような中立的な用語で使うべきだという議論が提起されてきた…。人間そのものは、「不法」であることも、存在自体が「不法」であることもあり得ない。(ウ・チュンヒ著『ゴマの葉闘争記』)
社会言語学者という職業柄、私たちの人生の中をさまよい、私たちを知らないうちに支配する言葉を疑うのが日常となっている。最近私が最も関心を持って調べる単語は、「不法」という言葉だ。誰かにとっては、地下鉄に乗ること自体が不法になったりするので、この言葉に疑問を抱くのは当然かもしれない。そうするうちに、上の文章に出会った。言葉を疑うのが職業である私が、「不法滞在者」という言葉をなぜ疑いもなく受け入れてきたのか。
先日、交通ルール違反の事実を知らせる告知書を受け取った。学校の前を通る時、しばらく他のことを考えていて、規定速度を少し超えたようだった。私が認知してもいない交通法規の違反。それなら私は「不法運転者」なのだろうか。そう呼ぶことを許せば、このように道路を描写することも可能だろう。「韓国の道路上は、不法運転者でいっぱいだ」。しかし、私たちは不法運転者という言葉を使わない。ウ・チュンヒはこの部分を指摘する。滞在期間の超過は行政手続きを違反したものであって、刑事的な犯罪を犯したのではない。それでも私たちは、未登録滞在者を「不法滞在者」と烙印を押してきた。「ゴマの葉闘争記」は、韓国社会が描く移住労働の地獄図を見せてくれる。奴隷労働の事例と呼んでもなんら不思議ではないその絵の中の移住労働者の人生は、私たちが忘れていた当然の事実を教えてくれる。不法な人はいないということ、登録、未登録とは別に移住労働者は韓国社会と分離できない韓国社会の一員だということだ。だから今は、「もっと大きな私たち」を想像する時だ。