唐の書芸家、張旭は、酒に酔って書道をする奇癖があり、「張顚」(気の狂った張旭)、または草書の大家といって「草聖」と呼ばれた。杜甫が李白など8人を選んで飲酒の神仙と描写したことがあるが、ここで張旭を「三杯の酒を飲めば草書の達人となる。王侯の前で帽子を取るような無礼さだが、筆を振るえば雲のように字が現われる」と言った。張旭にとって字と酒が一体となったという話だ。高適は張旭より年齢も若く、長安でしばらく交流したほか、彼とは深い関係はなかった。詩人は、飾り気のない明朗さと名利に超然としたこの老人の人柄を長く敬慕したようだ。酔いがまわったある日、詩人はふと張旭の人生を羨むよう思い浮かべ、敬意を表したかったのだろう。
人は付き合ったからといって、必ずしも真正性があるわけではない。言葉では親友と言いながら偽善的な時もあるものだが、この人は全くそうではない。酔ったまま筆を取るが、その文字は新妙な境地に達し、飾り気も偽りもないため、言葉も荒れない。生涯のんびりと過ごすことができたのは、彼が世の出来事に気にせず、青い空と雲と酒をそばに置いたからだ。張旭をこのように敬慕するとしても、高適は、辺境の戦線を行くなど官職生活に積極的だった。