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めんどりの母性愛

Posted June. 02, 2021 08:17,   

Updated June. 02, 2021 08:17

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作品が作家の意図とは違って受け止められるケースがある。ファン・ソンミ作家の『庭に出てきためんどり』もそのようなケースに属する。作家の意図は、「何かしたかったが、それを果たせなかった人が、自分の人生を悩み、努力し、最善を尽くしたものの、すべてを持つことができない」という内容の話だった。それで彼女は、読者が母性愛に焦点を合わせたことを知って驚いた。仕方のないことだ。意味は読者によって生成される。作品が世に出れば、作家も一人の読者にすぎない。

 

実際のところ、小説は母性愛がテーマだといっても間違いではない。養鶏場で捨てられためんどりが、鴨が産んだ卵を温めて母親になる。自分が産んだ卵ではないが、死をかえりみずに温めたので自分の子だ。めんどりが腹ではなく心で産んだ子に本物の母親以上の母親になって大切に育て、世に送り出すのは人間に似ている。いや、それ以上だ。めんどりは、鴨を安全に送り出した後、イタチに自分の身を差し出す。「さあ、私を食べろ。それでお前の子どもの空腹を満たせ」。めんどりは子のために身を捧げ、最後にはイタチの子のために自分の身を差し出す。誰かの子や親である読者がこの小説に感動するのは驚くことではない。

ところで、私たちがこの小説を読んで、見ようとしないことがある。人間の暴力性だ。主人公のめんどりは誰か。養鶏場の鉄条網に閉じ込められ、1年12ヵ月卵を産み、卵を産めなくなると捨てられた鶏、つまり廃鶏だ。人間がそのような鶏と動物を飼育して剥奪するのは、子を産んで育てる基本権だ。自らは母性愛の価値を称えながら、他の生命に対しては母性愛を剥奪するとは、小説の中のイタチと大差ない。それでもイタチは食物連鎖の中にあるが、人間は違う。このように見れば『庭に出てきためんどり』は、人間の暴力性を喚起する心地よくない小説になる。作家の意図とは関係なく、そのような倫理的不便さが底辺に敷かれているのが、この小説の長所であり深みだ。