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李舜臣の鹿屯島敗戦

Posted April. 14, 2020 08:42,   

Updated April. 14, 2020 08:42

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豆満江(トゥマンガン)の下流に鹿屯島(ノクドゥンド)という島があった。住民たちはここで農業をすることを望んだが、朝鮮政府が制止した。女真族の襲撃にさらされており、洪水のリスクが高いという理由だった。これは政府の責任感と保護本能というものだろうか、過度な統制だろうか?世宗(セジョン)の時の四郡六鎭の設置後、ここの緊張はさらに高まった。住民と政府の妥協案は、農業シーズンには住民が居住しながら耕作を行い、収穫後は撤退するというものだった。住民たちは島に常駐することを望んだが、砂の島なので頑丈な城を建てることができないと、政府が拒否した。その後、出入りする生活が不便であり、また危険でもあったので、住民たちが逃げてしまう。住民が減れば防御も粗末になり、また撤退する。本土に人口が増え、土地が不足すれば、入っていって農作業をすることが繰り返された。

1587年の収穫シーズンだった9月、住民は農地に出かけ、多数の兵力が農民を保護するために出動した。木柵の中には少数の兵力だけが駐留しているが、突然女真族が襲ってきた。この時の指揮官が李舜臣(イ・スンシン)だった。少数の守備隊が命がけで戦ってようやく木柵を守ったが、160人の住民は為す術もなく拉致された。陣の外にいたオ・ヒョンとイム・ギョンボンという武官など11人の兵士が住民を救うために女真族の間に飛び込んで戦い、戦死した。北兵使だった李鎰(イ・イル)は彼らの遺体を収拾し、彼らの壮絶な行動を朝廷に報告した。ところが制勝方略という本によると、この日、オ・ヒョンは逃げる途中、背中に矢が当たって死に、イム・ギョンボンは壮烈に戦ったのが正しいという。李鎰は鹿屯島での敗戦の衝撃を取り繕うために、脱走兵までも英雄に変身させたのだろうか?それとも非常に混乱した中で、目撃者たちが勘違いをしたのだろうか?

現場の目撃者たちも、同じ行動が違うように見える場合がしばしばある。より深刻な場合は、今私たちの社会である。自分の価値観に基づいて盲目的である。多くの人々がポピュリズムの猛威を懸念する。いや、もっと危険な現象が、偏向と盲目が支配する世の中である。教育が助長し、知性が便乗し、トリック政治は翼をつけた。

歴史学者