

写真では、ただ、ちびた形の色とりどりの図形だけが目に入るかもしれない。しかし、実物の絵の前に立つと、それぞれの「肌」が目立って迫ってくる。人の印象において肌のキメが占める割合が意外と大きいように、劉永國画伯(1916~2002、写真)の絵と向かいあったとき、表層の質感が伝える情感は相当なものといえる。
劉画伯は、慶尚北道蔚珍(キョンサンブクド・ウルジン)で生まれ、日本東京文化学院で美術を勉強した。小さい頃、船員になることを夢見た氏は、留学後はしばらく父親所有の漁船に乗ったり、韓国戦争中に廃墟となった故郷の酒蔵を復旧して運営したりしながら、酒のカスを餌に豚を飼うなど、強じんな生活力を発揮した。
学生時代から、旧態の強圧に抵抗していた劉画伯の性向は、本格的な作家活動を開始後、より一層目立つようになった。氏は1948年、金煥基(キム・ファンギ)画伯の推薦で、ソウル大学美術学部の教授ポストに就いたが、2年後辞任した。「芸術の自由な発展を図りたい」と唱えた30代作家の会である「50年美術協会」のメンバーに参加後、学校側から「左派性向協会への参加と教授ポストとのうち、一つを選びなさい」と求められて選んだ道だった。その後、「旧弊の派閥弊害を捨てきれずにいる」と主張し、国展への参加勧誘を何度も拒否した。1966年、弘益(ホンイク)大学教授に赴任したが、4年後、勤務日数が週3日から6日に増えると、「専業画家としてのアイデンティティを守りたい」と辞職した。
氏は、「山と森の多い街で育ったので、山や森を多く描いてきた。山は私の前ではなく、私の中にある」と語った。明け方の薄明りを乗り越えたばかりの森の霧の上に光りが降り注ぐ。山の尾根の後ろに星が掻かれて落ちる。いらいらして先に出ようとした気配は目にできないのに、洗練さが漂っている。李仲燮(イ・ジュンソプ)や朴壽根(パク・スグン)、金煥基などとは全く異なる流れの豪放さといえる。キム・インへ学芸研究士は、「早くから抽象美術の道を選んで、生涯、信念を貫いたエネルギーに関する質問に対して、劉画伯はいつも、『干渉を受けずに自由でありたかった』と答えた」と説明した。

유채화 ‘작품’(1965년). 유영국 화백은 48세 때 첫 개인전을 연 뒤 작가그룹과 절연하고 혼자만의 작업에 수도하듯 몰두했다.
劉画伯は、「60歳までは基礎をやってみて、その後は自然にさらに柔らかく回ってみようという気持ちで描いた。絵の前で感じる緊張感の中で、私は生まれ変わり、新たな覚悟や熱意を学ぶ」と語った。
何となく感じる癒やしの正体は、たぶん熱意のぬくもりだっただろう。
孫宅均 sohn@donga.com






