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故劉永國画伯誕生100周年記念個展、青年期から晩年までの約100点を展示

故劉永國画伯誕生100周年記念個展、青年期から晩年までの約100点を展示

Posted November. 08, 2016 07:22,   

Updated November. 08, 2016 09:14

유채화 ‘산’(1961년). 형체가 또렷하지 않은 가운데 무엇을 담았는지 또렷하게 다가온다. 작업 자체를 무엇보다 행복해했음을 보여주는 구석구석의 흔적을 찾는 재미가 쏠쏠하다. 국립현대미술관 제공

必ず赴いて自らの目で観覧することをお勧めする。印刷された作品の写真では到底、実物の質感を伝えることができない。来年3月1日まで、ソウル中区(チュング)にある国立現代美術館・德壽宮(トクスグン)館で行われる「劉永國(ユ・ヨングク)、絶対や自由」展。いろいろな面で頭の痛い日常に、深く慇懃な癒やしを抱かせる激しい筆遣いの痕跡に出会うことができる。

写真では、ただ、ちびた形の色とりどりの図形だけが目に入るかもしれない。しかし、実物の絵の前に立つと、それぞれの「肌」が目立って迫ってくる。人の印象において肌のキメが占める割合が意外と大きいように、劉永國画伯(1916~2002、写真)の絵と向かいあったとき、表層の質感が伝える情感は相当なものといえる。

劉画伯は、慶尚北道蔚珍(キョンサンブクド・ウルジン)で生まれ、日本東京文化学院で美術を勉強した。小さい頃、船員になることを夢見た氏は、留学後はしばらく父親所有の漁船に乗ったり、韓国戦争中に廃墟となった故郷の酒蔵を復旧して運営したりしながら、酒のカスを餌に豚を飼うなど、強じんな生活力を発揮した。

学生時代から、旧態の強圧に抵抗していた劉画伯の性向は、本格的な作家活動を開始後、より一層目立つようになった。氏は1948年、金煥基(キム・ファンギ)画伯の推薦で、ソウル大学美術学部の教授ポストに就いたが、2年後辞任した。「芸術の自由な発展を図りたい」と唱えた30代作家の会である「50年美術協会」のメンバーに参加後、学校側から「左派性向協会への参加と教授ポストとのうち、一つを選びなさい」と求められて選んだ道だった。その後、「旧弊の派閥弊害を捨てきれずにいる」と主張し、国展への参加勧誘を何度も拒否した。1966年、弘益(ホンイク)大学教授に赴任したが、4年後、勤務日数が週3日から6日に増えると、「専業画家としてのアイデンティティを守りたい」と辞職した。

氏は、「山と森の多い街で育ったので、山や森を多く描いてきた。山は私の前ではなく、私の中にある」と語った。明け方の薄明りを乗り越えたばかりの森の霧の上に光りが降り注ぐ。山の尾根の後ろに星が掻かれて落ちる。いらいらして先に出ようとした気配は目にできないのに、洗練さが漂っている。李仲燮(イ・ジュンソプ)や朴壽根(パク・スグン)、金煥基などとは全く異なる流れの豪放さといえる。キム・インへ学芸研究士は、「早くから抽象美術の道を選んで、生涯、信念を貫いたエネルギーに関する質問に対して、劉画伯はいつも、『干渉を受けずに自由でありたかった』と答えた」と説明した。

유채화 ‘작품’(1965년). 유영국 화백은 48세 때 첫 개인전을 연 뒤 작가그룹과 절연하고 혼자만의 작업에 수도하듯 몰두했다.

今回の展示は、留学時代から1964年のソウル新聞会館での初個展までの前半期、突然、作家グループ活動を取りやめ、一人で作業に打ち込んだ後半期の作品を、2つの階に分けて展示している。計100点あまり。たまに、少なからぬ類型変化を試み、一度試みた類型は相当な期間保っていたことがわかる。1977年、心筋梗塞でペースメーカーをつけた後、他界するまで、何度も脳卒中で倒れ、徐々に指先の力が衰えていった跡もキャンバス上にはっきり表れている。

劉画伯は、「60歳までは基礎をやってみて、その後は自然にさらに柔らかく回ってみようという気持ちで描いた。絵の前で感じる緊張感の中で、私は生まれ変わり、新たな覚悟や熱意を学ぶ」と語った。

何となく感じる癒やしの正体は、たぶん熱意のぬくもりだっただろう。



孫宅均 sohn@donga.com