「星星がどれだけ綺麗に光っているかご覧ください」
「なるほど。今この瞬間、あの星星がどのように光を放っているか知る人は、この世の中で、私1人だけだよ」
英天体物理学者・アーサー・エディントンは、1912年、星が光るのは、水素の核融合の反応ためだということを、初めて突き止めた。数日後、彼女と一緒にベンチに座り、星を眺めていたエディントン氏は、恋人のロマンチックな感嘆詞に、きわめて科学的な内容で答えた。恋人にとっては恋のために星が綺麗だったが、彼には、核融合で燃える星が愛らしかった。結局、エディントンは生涯、独身を通した。
星を見る理由はそれぞれ違う。星の占い師は運命を占うため、聖職者は、神のお告げを捜し求めて、航海士は、暗い航路を把握しようと、天文学者は宇宙の起源を解き明かそうと星を眺める。星を見たり、天気を予測したり、広々とした宇宙の前で、自分の存在を悟ったり、空飛ぶ円盤(UFO)を探したり、外界の生命体が送る信号を捕らえようと、がらんとなっている空を詮索したりする。
アルフォンス・ドーデは、「最も美しく光る星のひとつが、道に迷い、私の肩を頼りに眠っているの」を目にし、サンテグジュペリの「星の王子様」は、夜空を眺めれば、「笑いを分かち合える1人だけの星を持つことになるだろう」と喜んだ。オスカー・ワイルドは、「溝に漬かっていても、我々の誰かは、星を眺めている」と信じ、詩人の尹東柱(ユン・ドンジュ)は、「星の光の降りる丘の上に/自分の名を書いてみたり/土で覆って」しまった。そうだ。星は、省察の道具でもあった。
科学技術が発達し、都市が膨らみ、星が消え始めた。星は崇拝の対象や愛の証ではなく、ガスの塊に過ぎないことに気付いたのだ。星が光るのは、神の恵みではなく、核融合であり、星が光るのは、愛の喜びではなく、大気の密度の変化のためだ。誇りや光害のため、にごった広い都市の狭い夜空は、星の存在自体を忘れさせる。そして今は、誰もが、星を探そうとしない。
ソウルの地図を広げれば、北漢山(プクハンサン)の麓が南のほうに降りてきて、東西に流れる漢川(ハンガン)と出会う交差点に、龍山(ヨンサン)がある。地形からみれば、龍山はソウルの中心だ。東亜サイエンスは、龍山に天体観測館、天体投影館、天文公園からなる科学東亜の天文台を、25日オープンした。開館を祝う宇宙ショーなのか?科学東亜が創刊された1986年、ハレー彗星が76年ぶりに地球を訪れ、科学東亜の天文台が開館した今、アイソン水星が、地球を訪れた。
星は遠いところにあるわけではない。星を見たいと思う気持ちが遠いところにあるだけだ。肉眼で見られる星は、田舎と都市とはあまりにも違うが、反射望遠鏡や屈折望遠鏡から見れば、なんら差はない。これらの望遠鏡で、月や星、惑星を観測する時に感じる美しさや驚異は、直ちに感嘆詞へとつながる。星を見て嘆声を上げる経験は、田舎だけでできるものではない。一般の望遠鏡や双眼鏡で、都心でもいくらでも見ることができる。星は見えないから探さないわけではなく、探さないから見えないのだ。
星を見る最も実利的な目的は、時間や空間を測定し、自分の居場所を把握するためだ。今も変わっていない。人工衛星を通じて、衛星測位システム(GPS)で、現在の時空間で、自分の位置を把握する。星が人工衛星に取って代わられたのだ。しかし、内面で自分の位置を把握する自我省察は、決して人工衛星に取って代わられない。そうだ。人工衛星のみ必要であり、星を見ることのない人こそ、たいした人ではない。






