Go to contents

「憎い全斗煥」の適法手続き

Posted August. 20, 2013 03:21,   

한국어

1979年、12・12クーデターで政権を握った全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領は、自分が指名した後継者、盧泰愚(ノ・テウ)氏が大統領に当選した後、白潭寺(ペクタムサ)に追われるように入った。1988年11月、寒い冬だった。全斗煥夫妻はここで世論の動向を見ながら2年1ヵ月を過ごした。1987年6月、直選制の改憲を受け入れた盧泰愚・民主正義党代表が政権に就いたが、全氏にとっては試練だった。裏切りに歯ぎしりをしながらも、贖罪だと考えたことだろう。

打倒・民主正義党を背に政権を取った金泳三(キム・ヨンサム)元大統領は、歴史の立て直しを名分に全斗煥、盧泰愚両元大統領を法の審判台に立たせた。大法院(日本の最高裁判所に該当)は、全元大統領に内乱罪叛乱罪及び首魁の容疑に加えて収賄罪まで責任を問い、無期懲役と追徴金2200億ウォンを言い渡した。金泳三元大統領は、「結者解之」(自分の過ちは自分で解決しなければならない)として、任期最後の年に金大中(キム・デジュン)大統領当選者の提言を受け入れて全元大統領を釈放した。

金大中元大統領は、2人のことを問題にしなかった。処罰を受けた元大統領に再び罰を与えることは政治報復に映る恐れがあった。全羅道(チョンラド)出身の大統領が慶尚道(キョンサンド)出身の大統領を処罰することによる世論も考慮しただろう。ノーベル平和賞を受けるには政治的報復を慎む必要もあった。金大中元大統領の後に続いた盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領は、任期初め、金大中政府のアキレス筋だった北朝鮮への送金に対する特別検事制を受け入れた。元大統領の秘密資金に手をつける場合、誰かは捕まえ、誰かは捕まえないという公平性問題が重荷だったのかもしれない。

李明博(イ・ミョンバク)大統領は「流れ行く歴史」である元大統領を俎上に載せたくなかったようだ。しかし、朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は、全元大統領に最後まで責任を問わなかった元大統領たちの職務遺棄を強く非難した。財閥の過ちを許さず、既得権勢力の過ちを厳しく非難する朴大統領の「右派改革」と軌を一つにする。国会は、「公務員犯罪に関する没収特例法(全斗煥追徴法)」を作り、検察は全斗煥一家未納追徴金特別徴収チームを発足させ、一家の財産を隅々まで探している。大統領府では、民心をつかむのに悪くないため否定する理由もない。巷では、朴大統領が何か悔しいことでもあったのかという声も流れている。

元大統領だからといって過ちを覆い隠し、不正を大目に見ることはできない。銃刀で政権を握り、財閥から天文学的な金を受け取った腐敗行為をかばうつもりは毛頭ない。しかし、今の「改革」は、政治と司法の間の曖昧な領域を綱渡りしている。国会は元大統領の隠された秘密資金を徴収するために時効を延長しただけでなく、親戚までも財産追跡の範疇に入れた。法案審査で野党民主党の朴範界(パク・ボムゲ)議員は、「全斗煥追徴法は特定の人物を狙った為人設法であり、すべて違憲だ」と指摘した。犯罪の事実が確認されて20年余り流れた後に作った法で過去の犯罪を裁くことは遡及立法だという指摘もある。野党議員ですら違憲を主張するほどであり、憲法裁判所に行けば論議は簡単ではないだろう。大統領と家族の悪行が憎らしいからと、国民感情が良くないからといって、超憲法的な懲戒をすることはできない。朴大統領の言葉も重要だが、手続き的正当性もそれに劣らず重要だ。

全元大統領にも明暗があり、功過がある。12・12クーデターと5・18民主化運動流血鎮圧は逃れられないくび木だ。1980年代に3低好況で果たした経済成長は、今の繁栄した韓国経済の基礎になった。任期中、大学キャンパスを催涙弾で染め、多くの学生を刑務所に送ったが、直選制改憲と大統領単任制は全元大統領の作品だ。全斗煥秘密資金問題は、すでに検察と司法を越えた政治の領域になってしまった。李順子(イ・スンジャ)夫人とともに白潭寺で寒い冬を送り、盧元大統領とともに囚人服を着て法廷に立ったこと自体、司法権を越えた高度な政治行為だった。3人の元大統領が15年の間、全元大統領を事実上「放置」したのも、政治的判断だった。今再び司法を突きつけるなら、憲法と法律による適法手続きを順守しなければならない。「憎い全斗煥」だとしても例外ではない。