先月28日、平壌(ピョンヤン)で記者会見を行った脱北者のパク・インスクさんは、黄海北道(ファンヘプクト)のある山に連行された息子夫婦を救うために、再び北朝鮮に入国したことが明らかになった。東亜(トンア)日報は、パクさんがノート2冊に自筆で残した手記や日記、写真を先月29日、単独入手した。
パクさんの日記によると、息子を心配したパクさんは、2010年から北朝鮮に戻る決心をし、悩んできたことが分かった。息子への罪悪感にさいなまれる母性が、日記と手記の至る所にうかがえた。
「息子に対して罪を犯した私の人生を許して下さい。中国に来て、父に会って金銭問題を解決しようと思い…理性を失って越えてしまった…血縁を皆捨てて」
「息子の人生を台無しにして、嫁の家族に申し訳なく、嫁と孫に犯した罪、涙が海になる」
パクさんの手記と日記から、彼女が再び北朝鮮に戻る前に北朝鮮国家安全保衛部から圧力を受けていた様子は見られない。パクさんの知人も、「彼女が保衛部の脅迫によって戻ったのではない」と証言した。
パクさんは、自分が北朝鮮当局の許しを得ることができるのか、息子が元の暮らしに戻れるのか、全く分からない状況で、息子の人生に変化を与えることができるという小さな可能性に望みをかけ、命をかけたのだ。パクさんは05年、脱北の過程で中国で逮捕されて北朝鮮に送還され、保衛部で苦難に遭い、再び脱北したが、脱北したことがばれて前途有望な音楽家だった息子が08年に追放された。このことに耐えることができなかったのだ。
彼女の決断の背景には、越南者の娘として生きながら、北朝鮮体制で苦労してきた個人的な過去も大きく作用したとみえる。
パクさんが時折記録したとみえる手記には、韓国戦争による民族分断の悲劇と離散家族の苦しみ、約2万4000人の脱北者時代の南北の自画像がそのまま凝縮されている。
手記によると、パクさんは、韓国戦争の時に38度線を越えた父親から援助を受けて、平壌音楽大学を卒業した息子を支えようと脱北した。
彼女の父親は、光復(日本植民地支配からの解放)前、日本で医学博士の学位を取ったエリートだった。光復後、清津(チョンジン)医科大学の学長だったパクさんの父親は、当時6才だったパク・インスクさんを背負って避難したが、国軍に強制徴集され、家族と別れた。パクさんの父親はその後、国軍軍医官となり、ソウルで有名医学大学の学長を務めた。北朝鮮に5人の子どもを残した彼は、韓国で再婚し、2男2女をもうけた。末の息子は、元ハンナラ党の当選3回の国会議員だ。
北朝鮮に残ったパクさんの家族は、越南者というレッテルを貼られ、あらゆる迫害と差別を受けた。パクさんは学校で8年間最優等生で、軍数学オリンピックで1位になったこともあったが、大学どころか夜間大学にも行けなかった。音楽大学に行きたくて、平壌医学大学の学長を訪ねたが、願いを叶えることはできなかった。彼女が引っ越しする時、別れを惜しんで涙を流した友人が、皆「ミンチョン」(当時の青年団体)と呼ばれ、反革命的行為をしたと批判された。
パクさんは64年に咸鏡北道清津(ハムギョンプクト・チョンジン)のナナム製薬工場の労働者として働き、家庭をつくり、息子を産んで平凡な主婦として暮らした。
しかし、01年に夫が亡くなり、息子が13年間の軍服務を終え、パクさんが行きたかった平壌音楽大学に入学すると、彼女は韓国の父親から経済援助を受けるために、あらゆる力を尽くし、結局、脱北までした。
しかし、彼女が06年にソウルに到着し、探し当てた父親は、病床に横になって意識がない状態だった。父親は56年ぶりに娘がやって来たことも知らず、約20日後、95才で息を引き取った。父親の財産はパクさんに一銭も相続されなかったもようだ。
パクさんの知人によると、パクさんは腹違いの弟妹から冷遇されたという。一度も家族の集まりに参加せず、少しの金銭的援助も受けなかったという。パクさんは、父親の財産の分割を求める訴訟も考えたが、国会議員の弟に迷惑がかかることを憂慮して行動には移さなかったという。彼女が残した手帳には、北朝鮮に戻って話す予想問答が記されていたが、北朝鮮当局に国会議員の弟の存在を自白するかどうか悩んでいる内容が最初に記されている。
パクさんは、ソウル松坡区(ソンパク)のある賃貸住宅に住み、地下鉄清掃員や高齢者の介護人などの仕事を得て、何とか暮らしていた。昨年2月には、地下鉄の階段で転んで膝の下に大ケガをしたが、ある程度回復した後は、足を引きずりながら90才の高齢者の介護をしていた。
北朝鮮はパクさんの入国を、「金正恩(キム・ジョンウン)式恩恵政治」を大々的に宣伝して住民の脱北意欲を失わせる好材料と判断したようだ。平日、わずか6時間しか放映しない朝鮮中央テレビを通じて、なんと1時間13分もパクさんの記者会見を放送した。
北朝鮮の対南宣伝メディア「我が民族どうし」も1日、彼女を聖書の「帰ってきた放蕩息子」にたとえ、「劇的な人生とともに万人の心を打つあの絵の前で、誰が北朝鮮の人権に対して騒ぐことができようか」と主張した。記者会見場には、追放された地で苦労していた息子や娘も参加した。パクさんの冒険は、彼女が北朝鮮当局の宣伝用の犠牲になったことで、ひとまず外見的には成功したようだ。
パクさんの日記の中に描写された韓国は、彼女が記者会見で主張した通り、人が住めない国ではなかった。しかし、息子を地獄に追いやった母親には、どこにも天国はなかった。彼女は結局、自分の天国、息子のそばを求めて再び命をかけたのだ。
※記者は、6才の時から越南者の子どもとして様々な迫害を受けたパク・インスクさんが、晩年に息子とともに小さな幸福を得ることを願い、彼女に被害が及ぶ部分は公開しなかった。
zsh75@donga.com






