Go to contents

[社説]司法部は批判の聖域ではない

Posted March. 02, 2011 08:23,   

李容勳(イ・ヨンフン)最高裁判長は就任初期の06年、各地の地方裁判所を回りながら、「司法部のオーナーは国民であり、国民から信頼を受けられなければ、存立理由そのものがなくなる」と話した。昨年2月、新任裁判官の任命式でも、「われわれが行使する裁判権は、国民から出たものだ」とし、「裁判官の良心は、社会からかけ離れてはならず、普遍的妥当性を獲得するために努力しなければならない」と強調した。今年の新年の挨拶では、「国民が感動する司法部」を作ると誓った。全て正しい言葉だ。

ところが、李最高裁判長が先月28日、新任裁判官の任命式で行った発言は、誠に納得できない。李氏は、「依然、法治主義を疎外する要素が、社会の至るところに残っている。これは、司法部独立の足かせになりかねない」とし、社会団体やマスコミ、政治権力を、「司法部の独立を疎外する勢力」と決め付けた。李氏は昨年4月、「法の日」の記念式典や12月の全国裁判長会議でも、マスコミや政治圏、法曹界、市民団体などをひっくるめて、「正道から離れた批判を行っている」と主張した。

昨年初頭、「ウリィ法研究会」所属など一部の判事らが、姜基甲(カン・ギガプ)民主労働党議員の国会暴力や、全国教職員労働組合(全教組)の政治宣言、全教組所属教師の「パルチザン教育」、MBC番組「PD手帳」のBSEを巡る歪曲報道などを巡り、一連の無罪判決が出たことを受け、司法部は法曹社会団体やマスコミから批判を受けた。李最高裁判長の発言が、一部の裁判官の常識外れの判決に対する社会的批判を問題視するなら、間違っている。マスコミや社会団体が不当な判決に対し、問題を提起するのは当然の権利である。

一部の裁判官らの判決は、立法趣旨にも反し、普遍的妥当性ともかけ離れたものだった。政治的・イデオロギー的に偏った判決を含め、憲法精神や国民の法律感情、常識に反する判決は決して、批判の聖域ではない。裁判や判決は判事の領域だが、司法部を監視し、批判することも同じく、メディアの使命だ。李最高裁判長の発言は、司法部以外のほかの機関や制度を全て無視するような認識を露にしたものではないか。

金と権力を動員し、正義と不義とを取り替えようとする不当な外圧と、判決結果への事後の健全な批判を混同してはならない。「有錢無罪、無錢有罪」の根絶や、法の前の平等を要求する国民の正当な声を果敢に受け入れ、信頼を築くことより、「司法部の独立疎外勢力」と決め付けるのは、独善としか言いようがない。