「その人々はどこの国の人なのか。月の国で暮らしているのか、言葉が通じないから宇宙人だ…」
予備役海軍大尉のユン・ドゥホ氏(68)が20日、京畿道平澤市(キョンギド・ピョンテクシ)の海軍第2艦隊前の海軍のコンドミニアムで、もどかしさのあまり胸をたたいた。ユン氏の息子のユン・ヨンハ少佐は、海軍第2艦隊高速艇チャムスリ357号の艇長だったが、02年6月29日、第2延坪(ヨンピョン)海戦で、北方限界線(NLL)を侵犯した北朝鮮警備艇の奇襲攻撃を受けて戦死した。
20日、海軍哨戒艦「天安(チョンアン)」軍民合同調査団が、「天安艦は北朝鮮魚雷の攻撃を受けた」という結果を発表し、証拠を示したが、一部ではインターネットなどを通じて、「座礁説」「捏造説」などを提起して、政府を信じないため、ユン氏は「宇宙人とは対話が通じない。大韓民国を愛さない人々だ」と言って、激しい感情を露にした。
●「墓の碑文一つ変えることもできない」
同日、第2延坪海戦の戦死者遺族は、翌日の21日、息子たちの位牌が安置された海軍第2艦隊内のヘウン寺で開かれる釈迦生誕の日の奉祝法要式に出席するために集まった。
ユン・ドゥホ氏のほかに、ユン少佐の母親のファン・ドクヒ氏(64)、ソ・フウォン中佐の両親のソ・ヨンソク氏(57)と金ジョンスク氏(54)、チョ・チョンヒョン中佐の両親のチョ・サングン氏(70)とイム・ホンスン氏(64)、ハン・サングク中佐の父親のハン・ジンボク氏(64)、ファン・トヒョン中佐の両親のファン・ウンテ氏(63)と朴コンスン氏(58)の9人だ。朴ドンヒョク兵長の両親の朴ナムジュン氏(54)と李ギョンジン氏(54)、ハン中佐の母やのムン・ファスン氏(63)は、私情で出席できなかった。
「国家報勲処からは、まだまったく連絡がない。若くして死に、ほとんどが子どもおらず、時間が経てば、私たちの息子たちが、どこでどのように戦死したのか、誰が覚えているだろうか」
ソ・フウォン中佐の父親のソ・ヨンテ氏が嘆いた。第2延坪海戦は、太陽政策を維持しようとする当時の政府の対北朝鮮政策基調のため、「忘れられた戦闘」になった。現政権になって、追悼式が政府主管の行事に格上げしたが、待遇が不十分なのは同じだ。
遺族たちは、「延坪島の近海で戦死」となっている国立大田(テジョン)顕忠院の墓碑文に、「第2延坪海戦で戦死」と明示してほしいという望みがある。08年、国家報勲処が墓碑文を変えると言って、遺族たちが文案まで送ったが、まだ返答がない。遺族たちは、「政府が、散らばっている息子たちの墓を天安艦の勇士のように墓地に一ヵ所に集めて、第2延坪海戦を称える碑石を別途に設置することを望む」と話した。
激しい戦闘で勇敢に敵と戦って死んだ第2延坪海戦の戦死者らは、02年当時「公務上死亡」に分類された。補償金も、それぞれ3150万ウォン(兵長)〜6700万ウォン(少佐)にすぎなかった。これを機に04年に軍人年金法が改正されたが、第2延坪海戦の当事者には「遡及適用不可」として再補償されなかった。
●天安艦沈没事件で再び衝撃
「天安艦沈没の知らせを聞いて1ヵ月間は恐慌状態でした。今も消化が悪く、食事の前後に薬を飲んでいます」
ファン・ドヒョン中佐の父親のファン・ウンテ氏が、薬の袋を見せてくれた。天安艦沈没と46人の勇士の死の悲しみを辛うじて抑えていた遺族たちに、再び衝撃を与えた。朴氏は、「私たちの子どもたちで最後と思ったが、また悲劇が起こり、言葉がない」と話した。
遺族たちは、釈迦生誕の日、顕忠日、6月29日の第2延坪海戦の日、慶弔事など1年に10回ほど会ってきた。祖国に子どもを捧げた悲しみを知っている人々は、同じ戦死者遺族しかいなかった。天安艦沈没の翌日の3月27日が、朴ドンヒョク兵長の引っ越し祝いの日で、ユン少佐の両親とハン中佐の両親が集まった。家族たちは、第2延坪海戦の生存者だった朴ギョンス中佐が、天安艦で行方不明になったというニュースを聞いて驚いた。
21日午前にヘウン寺で行われた奉祝法要式で、第2延坪海戦の遺族たちに続き、天安艦沈没事件犠牲者の李ヨンサン下士の父親の李インオク氏(48)が出席して献花した。ユン・ドゥホ氏は、「悲しみを耐えて」と李氏を慰めた。
同日、遺族たちは艦隊安保公園内の第2延坪海戦の戦跡碑に黙祷した後、ハンカチを取り出して子どもたちの顔が彫られた浮彫像を磨いた。遺族たちは、数千発の銃弾と砲弾の跡がそのまま残っているチャムスリ357号にも上って、子どもたちが死を恐れずに戦った跡を見回して別れた。
jjj@donga.com






