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作曲家・朴椿石氏、2700曲を残して…

作曲家・朴椿石氏、2700曲を残して…

Posted March. 15, 2010 09:29,   

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「島町の先生」、「雨降る湖南線(ホナムソン)」、「麻浦(マポ)終点」など、1960年代の数多い愛唱曲を発表した元老作曲家の朴椿石(バク・チュンソク)さんが14日午前6時に他界した。享年80歳。

1954年、歌手のぺク・ソルヒが歌った「たそがれのエレジー」を皮切りに、作曲人生を始めた故人は、1994年8月、脳卒中で倒れるまで、2700曲あまりを作曲し、韓国大衆歌謡の歴史を作り上げた。「音楽と結婚した」と主張し、生涯、独身を貫いた彼は、病床での寝たきりの16年間、身動きや意思表示が全くできなかった。

朴さんは、1960〜70年代に、歌手の李美子(イ・ミジャ)やパティ・キム、ナム・ジン、羅勲児(ナ・フンア)、河春花(ハ・チュンファ)、鄭薫姫(チョン・フンヒ)などの歌を作曲し、彼らを次々とトップ歌手に押し上げ、「国内歌謡界の師匠」という評価を受けてきた。

「痛い心」(ナム・ジン)や「空港での別れ」(ムン・ジュラン)、「だれか、この人を知りませんか」(クァク・スンオク)、「雨降る湖南線」(ソン・インホ)、「初雨」(パティ・キム)、「水車は回るのに」(羅勲児)、「麻浦終点」(銀鈴姉妹)、「河東の入り口の娘」(河春花)などの名曲はすべて、故人の作品である。

氏は、李美子が「エレジーの女王」という異名を得るのに貢献した師匠だった。1965年から30年間あまり、李氏と共に「名コンビ」と呼ばれた。「島町の先生」や「雁の父親」、「黒山島(フクサンド)娘」、「たそがれのブルース」、「アネモネ」、「離れても心だけは」、「三十里の閑麗水道」、「他国で」、「歌は私の人生」を初め、彼が李氏のために作曲した歌は実に700曲あまりに上る。

14日、ソウル松坡区風納洞(ソンパグ・プンナプドン)のソウル峨山(アサン)病院・葬儀場の遺体安置所を訪れた李美子氏は、「朴先生とは、作曲家と歌手との関係ではなく、家族のような間柄だった。うちの息子が小さい時は、自分がスタジオで収録をしている間、息子は朴先生の膝に座って遊んだ思い出がある」と語った。李氏はまた、「朴先生はヘビースモーカーだったため、作曲をされながら、タバコを吸い、ピアノの鍵盤がタバコの火に焦げて、タバコをやめるように勧めるほどだった」と振り返った。

河春花氏は、「私は11歳の時、初めて朴先生にお会いしたが、もう少し大きくなったら一緒に仕事しよう、といわれ、17歳の時、『連浦(ヨンポ)娘』や「河東の入り口の娘」の曲を下さった」とし、「1991年、世宗(セジョン)文化会館で、私の歌の人生30周年記念公演を行う際、楽団の指揮をしてくださったのが最後の出会いとなった」と残念がった。氏は、「河春花が音楽人生を生きることができた、その原動力の半分以上は、朴先生のおかげだ」と付け加えた。

1930年5月8日、ソウルの裕福な家庭で生まれた氏は、4歳の時、オルガンに才能を見せ、蓬萊(ボンレ)小学校や京畿(キョンギ)中学校を経て、ピアノやアコーディオンを読破した。1949年、ソウル音楽学部・器楽課に、ピアノ専攻で入学したが、1年後に中退し、その翌年、シンフン大学(慶熙大学)英文科に編入し、卒業した。京畿中学4年生時代、明洞(ミョンドン)のナイトクラブ「黄金クラブ」でピアニストとしての活動を開始し、1954年から作曲家として活動した。

遺体安置所はソウル松坡区風納洞(ソンパグ・プンナプドン)のソウル峨山病院・葬儀場30号。告別式は18日午前8時。遺族は作曲家兼ピアニストの弟の朴グムソクさん(77)がいる。



savoring@donga.com