
4年前、アテネ五輪選手村で黒く日焼けした少年に会った。
ゴーグルと水泳帽の跡だけが白く、顔全体が真っ黒に焼けていたので、笑いを誘った。
「プールに屋根がなくて、炎天下の日差しを長時間浴びていたら、こうなりました」と晴れた笑みを見せた。その少年がまさしく「世界のマリーンボーイ」朴泰桓(パク・テファン、19=檀国大)だった。
当時、ソウル・テチョン中学校の卒業を控えていた彼は、韓国代表選手団で15歳の最年少だった。
「選手村の食堂でイアン・ソープを見たけど、足が本当に大きかったです」と純真だった彼は、「コーチに『自分の夢を羽ばたかせろ』と言われました。たくさん学びたいです」と元気一杯に語っていた。
しかし朴泰桓は、自由形400メートル予選で緊張しすぎたあまり、フライングで失格となり、念願の五輪プールで泳ぐことすら許されなかった。「偶像」だったソープと一度戦ってみたかった少年には大きな傷となり、化粧室で2時間号泣した。
それから4年。朴泰桓は、自由形400メートルで金メダルを獲得した後、自由形200メートルでも銀メダルを獲得し、世界トップクラスの競泳スターに躍り出た。
ドイツのDPA通信は、「もはや化粧室に隠れる必要のないスター」と賛辞を送った。
「あのときの羞恥心が、自分に根性を作ってくれた」という朴泰桓の言葉のように、苦い失敗が将来の成功を生む原動力になるのだ。
北京五輪では、アテネ大会の手痛い記憶をバネに栄光の主役になった「浪人選手らの成功物語」が注目を集めている。
柔道男子60キロ級で5連続の一本勝ちを収め、韓国に大会第一号の金メダルをもたらした崔敏浩(チェ・ミンホ、28=韓国馬事会)もその主役の一人だ。アテネ大会では減量で失敗し、一度に10キロ近く減量したため、粘りが足りず、試合途中に痙攣を起し、銅メダルに止まった。一人で焼酎7本飲んでも、悔しい気持ちは晴れないくらい、傷ついていた。だからと言って酒に溺れて、彷徨しているわけにはいかなかった。
前轍を踏まないと再び柔道着を着た。徹底した体重管理で4年を待った彼は、自分より頭一つ高い世界の強豪らを次々とマットに沈めた。
「死にそうに苦しい気持ち…。一日一日を涙で送った」という気持ちで、五輪を準備してきた崔敏浩は、夢にまで見ていた金メダルを首にかけた後、日頃から食べたくても体重制限で遠ざけていた即席ラーメンの汁から飲み込んだ。
秦鍾午(チン・ジョンオ)と南賢喜(ナム・ヒョンヒ)は、アテネ大会が終わった後、本紙に連載されたシリーズ「語り尽くせなかった話」に紹介されたことがある。
秦鍾午は男子ピストル個人50メートル決勝で、首位を維持していたが、7発目で的を大きく外し6.9点を出し、銀メダルに止まった。南賢喜は、女子フェンシング・フルーレに出場し、16強戦で世界4位を倒して突風を巻き起こしたが、準々決勝で油断したあまり、世界5位に敗れメダル獲得できなかった。
秦鍾午と南賢喜は当時、インタビューで「4年後のアテネ大会では主役になりたい。そのために、すぐに練習を再開する。見守って欲しい」と語った。
4年間の切磋琢磨は光を放った。
その間結婚をしている秦鍾午は、「子ども計画」も五輪後に見送った。決戦を前に髪を短くして決意を固めた。ピストル10メートルで銀メダルを取ったのに続き、ピストル50メートルでは金メダルを獲得した。韓国射撃の五輪金メダルは、1992年のバルセロナ大会以来16年ぶりの快挙だ。
決勝では、一発を撃ち終わる度に順位が入れ替わる大接戦を戦い、0.2点差で優勝を勝ち取った。秦鍾午は、「4年前の経験から、どんなピンチでも動じない強い気持ちが持てるようになった」と語った。
注目度の低い種目という冷遇のなかでも、剣の先に希望をかけてきた南賢喜は、韓国フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得する快挙を成し遂げた。
kjs0123@donga.com






