「国民的なエッセイスト」皮千得(ピ・チョンドク)は、自分が生まれた5月が好きだった。「5月は冷たい水で顔を洗ったばかりの21歳の清新な顔だ。自分の年なんて、数えたって何の意味があるだろう。私は5月の中にいる」(随筆「5月」より)。彼は一生を少年として生きた。「私は芝生を踏むのが好きだ。新芽に触るのもいい。海の波の音を聞くといまだに心が弾む。誰も憎むことなく、何人かの人を死ぬほど愛しながら生きていきたい」(随筆「私の愛する生活」より)。自分の書いた文章のような人生を生きた「5月の少年」が5月の末ごろ、この世を去った。
◆彼は1970年代半ば、筆を折った。「ある日、ふと気づいてみたら、自分は以前のレベルにも及ばない文章を書いていた。それで書かないことを決めた。」彼はソウル大学の教授職を1年余り残して退職した。生まれつきの純粋さや謙遜、質素さをあまねく備えた人物だと、みなが口をそろえる。しかし、それほど単純なことではない。彼の人生は平坦ではなかった。7歳の時は父親を、10歳の時は母親を亡くし、日本の植民地支配や韓国戦争のような現代史の逆境の中で生きてきた。
◆彼がデビューした1930年代初頭は植民地支配下で、現実への参加的な文学と純粋文学が対立した時代だった。ここで彼は抒情と純粋の道を選ぶ。彼の文章にかすかな痛みが盛り込まれているのは、厳しい現実を乗り越えて手にした純粋さであったためだろう。文学の歴史で「現実」と「純粋」は絶えず繰り返される。現実への参加派がしばらく羽振りを利かせると、その次は、純粋派が目立ったりした。イデオロギーの過剰や物質万能の時代であればあるほど、人々は彼の文章から心を打たれる感動を覚えたのかも知れない。
◆1910年生まれの彼は、「あまりにも長生きしすぎて恥ずかしい」と言う言葉をたびたび口にしたという。他人から「皮千得先生はまだ生きていらっしゃいますか」ときかれることが、負担となったようだ。しかし、人々はそれとは異なる思いをしている。国民から愛される文人で100歳を超えて生きている人がいるということは、どれだけありがたいことなのか。彼が100歳をわずか3年後に控えて死去したことは残念でならない。
洪贊植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com






