
「奇大升(キ・デスン)が弟子たちと山川を歩いている途中、景色の良いところに着くと、ある弟子が聞いた。『世の中で、人格がこの景色のような立派な人がいますか』。この質問に奇大升は、「鄭𨩱(チョン・チョル)がそうだ!」と言った」(松江行録)
朝鮮時代の不世出の文人で、最悪の政治家だった松江(ソン・カン)・鄭𨩱。師匠の奇大升は、彼の非凡さに隠された人間の欠点をみることができなかったが、政敵たちは彼を、「東人白丁」「姦𨩱」「毒𨩱」と呼んだ。
彼は二面性を持つ人物だった。漢文学とハングル文学の領域を行き来しながら不朽の傑作を残した詩人だったが、16世紀後半、政争の中で到底納得できない政治的行跡で永遠に汚点を残した。
この本は、韓国史の「天才列伝」だ。生まれつきの才能で世の中の未来を喝破し、「時代の常識」を超えようとした天才13人が登場する。李ドクイル、シン・ジョンイル、金ビョンギ。著述で歴史の大衆化を主導している在野の史学者3名が、韓国史の人物の対する「好き嫌い」を校正するため意を共にした。
禪宗と𨥉宗を思想的に統合させ、仏教革新の土台をつくった知訥(ジヌル)、官奴出身で、「世界で最も正確な時間」と朝鮮にプレゼントした蔣英實(チャン・ヨンシル)、我が民族の歴史的舞台を高句麗(コグリョ)と渤海(バルヘ)まで拡張させた柳得恭(ユ・ドクゴン)…。彼らは時代を超えた天才だった。
自信の全ての天才的才能を独立運動にささげ異国の地でこの世を去った李相卨(イ・サンソル)、カトリックを捨てなさいという圧力に立ち向かって断食のあげく死に至った李檗(イ・ビョク)、国を失った責任を独りで負い自殺してその生を終えた梅泉・黄玹(メチョン、ファン・ヒョン)。彼らは時代の桎梏を体全体で抱いた天才だった。
天才たちの生の明暗も一つ残らず表れている。
一生に渡って権力の周囲を回った鄭𨩱。彼は多血質で直線的だった。言いたいことがあれば必ず言わなければならず、反対派を攻撃するのに水火も辞さなかった。
東西朋黨のど真ん中に立って300年間の血生臭い党争時代を開き、鄭汝立(チョン・ヨリプ)謀叛事件が起きると、西人の「行動大将」を名乗っては1000名を超える反対派を粛正した。「朝鮮実録」は、彼が酒に酔って重大な事件を処理しながら、証拠を捏造したと伝えている。
にもかかわらず、彼の文学的行跡は、今日までも他の追従を許さない。政争のぬかるみの中でも後世に永遠と残る傑作を作っただけに、彼の「思美人曲(サミインゴク)」と「續美人曲(ソクミインゴク)」は韓国文学史上、最高の傑作と評価される。
「国文詩歌で彼が成し遂げた輝かしい業績を考えれば、政治家として鄭𨩱の姿は見えず、血に染まった彼の政治歴程を考えれば、詩人としての松江の姿は見えない…」
一生を通じて8000編以上の詩を書き、「筆を走らせ詩を書く」と言われた高麗(コリョ)の文章家、李奎報(イ・ギュボ)もやはり、学識を持つ人の模範にはなれなかった。長い間、閑職を転々としながら時代を恨んだ彼は、武臣政権の登場で立身陽名の機会を掴んだ。チェ氏政権によって抜擢された「御用文人」だった。しかし、彼の文才は、彼の意志とは関係なく世の中を良くするために使われたので、彼の叙事詩「東明王篇(トンミョンワンピョン)」は、高麗人のプライドを万世に伝えた詩文の白眉だ。
丁若饁(チョン・ヤクヨン)が、「化け物でないか疑ったほど」だったという天才、李家煥(イ・ガファン)。彼は、自身をカトリック信徒だと追い込む老論の弾劾から生き残るため、多くの教友を犠牲にし自己弁明をしようとしたが結局、刑場の露と消えた。
鄭𨩱はどうだったのか。彼の晩年は寂しく食べていくことさえ難しく、貧困と鬱憤のなかで生を終えた。
彼が死ぬと司憲府では宣祖(ソンジョ)に、「彼は性格が偏屈し、疑い深く、蛇蝎のような心で人を害した」と申し上げた。すると宣祖はこう答えた。
「鄭𨩱のことを言おうとすれば、口が汚されないか心配だ!」
keywoo@donga.com






