▲生き地獄のようだった水沒現場〓1922年に慶尚北道浦項市杞渓面(キョンサンプクド・ポハンシ・キゲミョン)で生まれた金さんは、1941年7月に突然入ってきた日本警察によって理由も知らないまま、長生炭鉱に連れて行かれた。
水没事故が発生した1942年2月3日の午前9時半頃、金さんは前日の午後5時から続いた16時間の採炭作業を終えて、宿所に帰る途中だった。
「急に坑口(炭鉱の入口)近くで『水非常』と言う声が聞こえ、後ろを振り向くと、海の上に突き出ている換気口から黒い煙と水柱が湧いたんです」
大人の腰の高さに過ぎない狭い坑道の支え木が水圧を耐えることができずに崩れ、海水があっという間に坑道全体を満たした。炭鉱側は隣近の村が浸水される危険があるとし、炭鉱の入口を閉じ込め、当時炭鉱の中にあった強制徴用者たちは一人も抜け出すことができなかった。
日本側は、この事故で亡くなった炭鉱労働者は、韓国人徴用者133人を含め合わせて183人だとの報告を行った。しかし金さんは、いつも200人以上が採炭作業をしていたので、犠牲者の数は200人を超えるだろうと見ている。
炭鉱側は、事故再発の危険が高いという理由で遺体の発掘も行わずに炭鉱を閉鎖した。
▲終わらない悪夢〓金さんは水沒事故が発生してから3日後に、監視が疎かになったすきを利用して炭鉱を脱出した。当時、長生炭鉱は強制徴用者たちが泊った宿所のあちらこちらに監視塔を建てて厳格に見張った。炭鉱側は、脱出した強制徴用者を捕まえた住民たちに米一俵ずつを与えていた。つかまった強制徴用者のうち、その多くは酷い暴行を受けて死亡した。
また、多くの韓国人徴用者が採炭作業の途中、天井からの落石や伝染病で死亡した。金さんもコレラにかかって意識を失ったことがある。日本人の医師は金さんを火葬場に連れて行くように指示したが、一緒に徴用されていた故郷の先輩が、辛うじて助けてくれた。
金さんは兵庫県の韓国人の家に隠れて過ごしていたが、1945年に見つかって軍隊に連れて行かされた。しかし、まもなく光復(日本からの独立)を迎えて、その年の10月に韓国に帰って来ることができた。強制徴用当時に暴行にあい、右腕をほとんど使うことができない金さんは、6・25(韓国戦争)戦争の時には聴力までも失った負傷軍人でもある。
夫人とつらい生活を送っている金さんは、数年前からハングルを学んで自分が経験したことをノートに書いている。
ノートに自らの体験を書き始めた理由を金さんは、「死ぬ前に、厚かましい日本からまともな謝罪を受けることは難しそうなので、胸の中の蟠りを解消するためには、何か残さなくてはならない。」と述べた。
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