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[オピニオン]法治的思考

Posted May. 18, 2003 22:23,   

新都市で、例えば自転車専用道路のような施設を整備するには、誰がどんな段階を経てどのように進めるべきなのか。中国から入国する旅行者の中で、新型肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)感染の疑いがある乗客を隔離または監視するには、どのような措置が必要だろうか。一般の市民たちは、漠然と関係当局の行政処分や予算措置のみを考えるだけで、具体的な手続きについては詳しくもなければ、関心もない。前者の場合「自転車利用の活性化に関する法律」というものがあって、当該市長または郡長が、自転車利用施設に関する整備計画を作成した後、道知事の承認を経て進められる。後者の場合は、先ず保健福祉部令の「検疫法施行規則」を修正して、SARSを検疫伝染病に指定しなければならない。そうしてはじめて、検疫法に則った隔離または、監視措置が可能になる。

◆当然のことながら、法治国家において、あらゆる行政上または予算上の措置は、当然法的根拠を持たなければならない。にもかかわらず、大部分の国民が自分中心の便益や国家的費用、あるいは心情的妥当性を優先して考えるきらいがある。反面、法的根拠があるのか、または合法なことであるのかなどについては、相対的に関心が薄い。その理由はどこにあるのだろうか。法治主義の基盤が脆く、法律が国民の暮らしの中に根づかなかったからだといえる。

◆学者たちはよく、韓国社会に法治主義が容易に定着できない原因として、私たちの儒教文化的な伝統と政治、社会的経験を挙げている。丁若饁先生(チョン・ヤギョン、雅号:茶山、朝鮮王朝後期の学者)も「経世遺表」という題の著書の中で、「礼儀が先で法律はその次(礼主法従)」と記述しているが、未だ国民の精神風土の中には人倫と道徳、礼儀などを、国民を代表する国会が制定した実定法よりも優先的に考える風潮が残っている。いわゆる「駄々法(駄々をこねて問題を解決しようとする形態)」や「国民情緒法」という、法典にもない「法律」が出現するのも、そうした事例である。とりわけ、日本による植民地統治時代と独裁体制、軍事政府などを経るなかで、法律とは国民の便宜を図るものというより、権威主義的な統治を合法化する手段として制定、運用されているという、一種の被害意識が働いているという側面も否めない。

◆ところが、民主国家において法律とは、国民に代表によって制定されたひとつの約束であるため、それが即ち国民の意思だとみるのが正しい。一部、法律を適用する現実の中で不平等が感じられるとしても、それが即ち約束された国民の意思を拒む理由にはならない。慶尚北道浦項(キョンサブクド・ポハン)から始まったストによる物流大乱が収拾に向かう過程を見守りながら、当事者たちの主張が正しいか否かといったこととは別に、その反法治的な集団性に、国民的な懸念を示さずにはいられない理由も、正にここにある。

鄭城鎮(チョン・ソンジン)客員論説委員(国民大学総長)sjchung@kookmin.ac.kr