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[オピニオン]独裁者の銅像

Posted April. 10, 2003 22:40,   

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独裁者たちには奇妙にも銅像が好きだという共通点がある。歴史に汚名を残した独裁者のほとんどは、例外なく、銅像を立てるのが好きだった。独裁者が強権統治を振りかざす時に立てられた銅像が、独裁者の沒落後、人々のおちゃらかしのたねや陵辱の対象になったのも一緒だ。10年余り前、旧ソ連と東欧で社会主義が崩壊した時、レーニンとスターリンの銅像がそういう羽目になっており、一昨日は、バグダッドのメイン・ストリートに立っていたフセイン大統領の巨大な銅像が歴史の繰り返しを実証してくれた。独裁者の銅像が撤去される光景は、一時代の終焉と新しい時代の始まりという象徴的な意味合いを持つ。

◆独裁者が好む政治的な象徴彫刻の一つが他ならぬ銅像建立だ。こうした方法で権力を正当化し美化することを政治学用語では「ミランダ(miranda)」という。雄大壮厳な公共施設の建立や各種の芸術作品、盛大な集団意識などを通じて、非支配者グループの精神をミスリードし、絶対権力の力を誇示するのだ。しかし、国民的な支持基盤を失った権力が「包装」だけで永続できるわけがない。独裁者もそれを知らないはずはないが、「包装」を通じてでも支持基盤の離脱を阻もうとする欲望がむしろ惨めな最後を促す原因になったのではないだろうか。

◆我が国でも民心を背いた執権者の銅像が撤去された例がある。パゴダ公園(現塔骨公園)に立てられた李承晩(イ・スンマン)初代大統領の銅像は、1960年4・19革命の時、引き摺り下ろされて道路に転がり込んだ。ソウル文来洞(ムンレドン)公園にあった朴正煕(パク・ジョンヒ)元大統領の胸像が、特定の市民団体によって奇襲的に撤去されて議論を呼び起こしたこともある。どの国より屈曲の多い現代史を経ってきた我々の自画像でもあるが、死んでまで凌蔑される権力者の姿は、そのものが時代の悲劇である。その後、この地で「銅像の時代」は幕を下ろした。

◆銅像建立に熱心な独裁者として、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)父子の右に出る者はいないだろう。北朝鮮全域に大小を問わず金日成の銅像がおおよそ3万5000個余りもあるというからギネスブックに載せられて十分だ。執権者が飢えた人民より生命のない銅像にこだわるのは罪悪である。偶像化に沒頭している北朝鮮の指導者らは、独裁者の銅像は必ず崩れてしまうという歴史の教訓がまだ分からないのだろうか。とにかくいつか北朝鮮のそんなに多い銅像と記念碑を撤去するのに、どれほど莫大な費用がかかるのか今でも心配である。統一後、ドイツ政府は東ベルリンにあったレーニン銅像を撤去するために惜しい統一費用を降り注いだという話も聞かれるからだ。

宋文弘(ソン・ムンホン)論説委員 songmh@donga.com