ニューヨーク刑務所に収監されたビンゴは、故郷の妻に「一人で暮らすのがつらければ私を忘れてくれ」という手紙を書き、3年半の間消息を断った。彼は仮釈放を前に妻に再び手紙を送った。「私を許して迎えてくれるなら、町の入り口のオークの木の枝に黄色いハンカチを結びつけておいてくれ」と。故郷の町が近づくや、帰郷バスの中でビンゴの顔は硬直し、事情を聞いた乗客もみな息を殺した。急に若者たちが立ち上がって歓声を上げた。車窓から黄色いハンカチでいっぱいのオークの木が見えた。ひとつではなく数百の黄色いハンカチが波打っていた。
◆10年前に100刷を超えた「黄色いハンカチ」(オ・チョンソク編、セムト社)で紹介された実話で、中年世代の青年時代を懐かしくさせる話だ。これを素材にした歌が、73年に出たトニー・オーランド&ドーンの「オークの木に黄色いリボンをつけてください」という歌だった。その後黄色いリボンには「放浪者の帰還」を願う家族の愛が込められるようになった。それは果てなく待ち、そして許す心であった。そのような意味で、韓国民族の「恨(ハン)」にも色をつけるなら、黄色が似合うかもしれない。米国で一時、黄色いリボンが青少年の自殺防止キャンペーンの象徴として使用されたのも、大切な家族愛をわからせるという意味だった。
◆黄色いリボンは徐々に政治的意味も持つようになった。時には「ピープル・パワー」を象徴し、時には平和への切実な願いを象徴した。86年のマルコス独裁を終わらせる時、フィリピンの黄色いリボンの波には、民衆の怒りが込められていた。94年にアイルランドを訪れた米大統領の前で、「大人のケンカのせいで父親が亡くなったことが、一番悲しいことだった」と涙で訴えた少女の黄色いリボンには、戦争のない世界への素朴な願いが込められていた。また、アフガニスタン戦の時、タレバーン政権がヒンドゥ教徒に黄色いリボンをつけることを義務づけたのは、差別のしるしだった。韓国で労組の集会や政治行事の際、黄色いリボンが登場したことがある。昨年、与党民主党の盧武鉉(ノ・ムヒョン)候補が苦境に追い込まれた時、ノサモ(盧武鉉を慕う会)は、「盧武鉉を助けよう」と、遊説場の周辺を黄色で埋め尽くしたこともあった。
◆イラク戦が真っ最中の今、黄色いリボンが米国全域を覆っている。湾岸戦争の時もそうであり、コソボ戦の時もそうだった。94年に北朝鮮に抑留された米軍のヘリコプターのパイロットの故郷は、「黄色のリボンの日」を作った。もはや米国で黄色いリボンは、愛国心の代名詞となった。しかしこの黄色いリボンが、戦争の恐怖に怯えるイラク国民の目には「黒いリボン」に映るかもしれない。
林彩清(イム・チェチョン)論説委員
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