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[オピニオン]光化門

Posted December. 31, 2002 22:15,   

20世紀末、ある詩人は、風吹く日には狎鴎亭洞(アップクジョンドン)に行かねばならないとうたったが、21世紀初めの市民たちは光化門(クァンファムン)に行く。漢江(ハンガン)のような広い道路を赤色でいっぱい染めては泣き笑いながら歓呼した6月の「レッドデビルズ」、無念に死んでしまったヒョスンとミソンの魂を慰めながら新しい韓米関係を求めた12月のロウソクの海、そして盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領候補の当選を祝う黄色い風船まで。「光が変わってなった門(光化門)」という意味を持つ美しい名前の光化門交差点は、その名に相応しくわれわれに夢を光で放つ広場となって市民に近寄ってきた。われわれがいつこんな情熱を持って集まったことがあったのか。

◆1970年代の汝矣島(ヨウィド)広場は、軍事政権が乱暴に作った官製動員の場だった。87年、ネクタイ部隊が民主化を叫んだ市庁前広場も祝祭でなく切実な絶叫の場で他ならなかった。歴史的に光化門交差点は、統治権力の第一の広場だった。朝鮮王朝の太祖が景福宮と光化門を建てて以来、議政府(ウィジョンブ)と吏曹、戸曹など六つの曹が両側にある6曹通りでは、音楽が奏でられるなかで王様が行進し、有識者たちはここでうつ伏せになって文書を持って申し上げた。宮殿守備隊が明成(ミョンソン)皇后を殺害した日本の浪人たちと闘った歴史の現場でもあった。東亞日報(ドンアイルボ)本社が光化門交差点に建てられたのも、日本の總督府を監視しなければならないという東亞日報設立者、仁村・金性洙(インチョン・キムソンス)先生の意志のためだった。

◆このように光化門は、この前までも高圧的な権勢と自動車が16車線を走りながら市民たちを脅していたところだった。親しみを感じるにはあまりにも厳粛な政府中央庁舎と世宗(セジョン)文化会館があり、また一方では名前にふさわしいほどには文化的とは感じられない文化観光部と、最近、生硬に見える米大使館がそびえている。鐘路(チョンロ)から忠正路(チュンジョンロ)へと続く道が民衆と若さの道なら、光化門から市庁前まで延びている道は市民たちが気楽に歩くことさえ難しい権力と外国勢力の道だった。しかし、われわれの心に帰ってきた光化門交差点は、権力との和合を象徴する。光化門広場を埋め尽くした活力と機運は、もはや真の力は市民にあるということを威風堂々と立証している。

◆いくらインターネットが発達して一人で世界と交信できるといっても、人々は互に顔を合わせてこそ暖かさを感じる。いくら鮮明な高画質テレビが家にあっても、光化門の大型電光板をみんなで一緒に見上げるわくわくする気分には勝てない。新旧世代が一つとなって、考え方の違う人たちもいっしょになれるところがまさに市民の広場となった光化門だ。2003年の光化門では皆がもっと嬉しく、もっと幸せで、もっと誇らしい祝祭がもっと多く開かれて欲しい。

金順鄹(キム・スンドク)論説委員 yuri@donga.com