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[オピニオン]「なぜアクション映画なのか」

[オピニオン]「なぜアクション映画なのか」

Posted November. 26, 2001 10:03,   

今朝から氷点下の天気が続くとの気象情報を聞いていると、いよいよ本格的な冬の始まりを告げているようだ。しかし、例年に比べ今年は冬の訪れが多少遅れた感がある。

気候の変動のせいか、それだけに今年の秋は長かった。

秋といえば、例によって「読書の季節」云々しながら、文学と芸術の雰囲気づくりに勤しんだことを思い出す。ところが、長びいた今年の秋は、秋でありながら秋の味わいが全くしなかった。大小規模の文化芸術行事がなかったからではない。感情的に秋を満喫できなかったということだ。

朝、新聞を広げると、利権をめぐる各種争いで塗り固められた国内政治欄が目障りで、海外ニュースに関心を向けようにも、冴えないことばかり。たった一人の狂信的なテロリストを捕えようと、地球上で無二の超大国が、国を挙げて報復殺人を決心したかのように、野蛮的な戦争を無制限に続けると、啖呵を切っているニュースばかりが目につくからだ。このような折、文学や芸術を考えたり語ること自体、興がわかないのだ。

政治は、国会や政党のような政治の場で職業政治家らがするものであり、戦争は聞いたこともないような貧しい国で起きていることだから、何とか忘れることもできそうだ。しかし、どうも心が落着かない。芸術や文学というものは、社会の集団的生活にせよ個人の日常的な暮らしにせよ、まずは落着いた環境と雰囲気を前提にするものであるからだ。要するに、社会の雰囲気が安定していなければ、良い芸術を鑑賞する気分になれないのだ。

この頃、小さな話題を呼んでいる「ネコをよろしく」「ワイキキブラザーズ」など、韓国の映画にしては珍しく省察的で深みのある映画が興行に惨敗し、早くも劇場街から追い出され、代りに粗暴な所謂「ギャング映画」ばかりが連日のように観客を呼び集め、大ヒットするといった現象も、このような雰囲気と関連づけられるのではなかろうか。ただでさえ心身が落着かないというのに、映画まで神経を集中して見なくてもいいのではないか。万事すっかり忘れて笑わしてくれればいい、というのが観客大部分の気持ちのようだ。社会全般の雰囲気が沈んでいるからこそ、暴力映画だけが喜ばれる。

力の論理がその本性を露骨に表す時、芸術や文化も荒くなる。それとも、倫理的に不感症に陥ってしまう。地球の片隅で大勢の人々が爆撃を受けて死んでいったり、餓死または復讐と殺戮で暴れ狂っているというのに、一方では音楽会や展示会で、格調高く美的情緒を吟味することは、如何に冷笑的な行為であろうか。

しかし、一国に大きな災難と不幸があるからといって、それと直接係りのない他国の芸術行事が中断されるわけにもいかず、中断されることもない。その必要もない。人間は、冷酷で残忍なものだ。集団である場合はなおさらだ。

この点、芸術や文化は、倫理とはあまり関係がない。互いに反対側に立っている場合も多い。

戦争中、ナチが熱狂したのは、ワグナーのオペラだった。とりわけ、モダンアートというものがそうで、現代のエンタテインメントがそうで、現代のスポーツがそうだ。資本を投じて商業化するほど、その傾向は強くなる。企画され予定された興行は、何があっても予定通り進められなければならない。現代の組織社会における他の分野の活動同様、ここでも遂行的な原則に充実でなければならない。他で何か大変なことが起きたとしても、文化芸術分野が活動を止めて待っていてはならない。それとは関係なくして、そのまま続けなければならない。社会各分野の活動のうち、一つでも空白ができてはならない。現代社会では、空白を許さない。

敢えて倫理的不感症とは言ったものの、実際私自身、倫理が何であるか知らない。漠然とそんな気がするというだけのことである。明らかな罪意識のようでもなければ、良心や責任感でもないし、四海同胞的連帯意識でもない。せいぜい少しすまないという感情とでも言おうか。少々穏やかでない気持ちと言えようか。そんな程度だ。敢えて考えようとしなければ、簡単に忘れられるもの、自ら無視しても良さそうな些細な感情なのだ。この季節、私の情緒について考えてみた。

崔旻(チェ・ミン)韓国芸術総合学校映像院教授(本紙客員論説委員)