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死去したチョン監督、マラソンの人生

Posted July. 06, 2001 20:40,   

「これから先が思いやられる。黄永祚(ファン・ヨンジョ)や李鳳柱(イ・ボンジュ)のような選手がいない。韓国のマラソンがやっとここまでたどり着いたというのに…」。

5日夜、息を引き取った「韓国マラソンの父」チョン・ボンス監督。3月に開かれた2001東亜(トンア)ソウル国際マラソンで、病弱な体を憑(つ)いて姿を現し、しきりに韓国マラソンの将来を心配していた。

無名の短距離選手出身で1953年の韓国戦争の時に入隊、その後下士官として勤め、陸軍援護団の監督を務めていた彼は、87年コーロンマラソンチームの初代監督に就き、これまでにキム・ワンギ、黄永祚、李鳳柱選手を育て、韓国マラソンの花を咲かせた。マラソン一筋の生涯だった。

チョン監督にとって選手たちは息子と同じだった。彼は87年コーロンマラソンチームの結成以来、今まで選手たちと一緒に生活してきた。選手個人の性格や趣味、好きな食べ物、寝癖まで、手に取るように把握していた。目を見ただけで、選手が何を考えているのかがすぐ分った。

しかし、これは時おり血気盛んな若い選手たちとの葛藤の原因にもなった。

「マラソンというのは、友人と遊ぶとか、あるいは街でやりたいことをしながらでもできるような安易なスポーツではない。一日だけでも練習を怠れば、それまでの練習は水泡に帰す。とり返しがつくまでには一週間ほどのハードトレーニングが必要。私も大人になった選手たちに対して、ここまで厳しいことを言いながらやりたくはない。しかし、私が選手たちを24時間管理しなければ選手たちの競技力が低下してしまう。それで私は選手たちが床につくのを確認して始めて、安心して休むことができる」。

チョン監督はどんなに資質が優れている選手であっても、練習を休むことを許さなかった。恵まれた才能のマラトン選手といわれた黄選手も、想像を絶するほどのハードトレーニングに耐えなければならなかった。

黄選手は後に「訓練中に車が通り過ぎていくと、その車輪の下敷きになりたいくらいだった」と漏らしたほどだ。

チョン監督は生前に、△マラソンでもっとも重要なのは不屈の精神力だ△教科書通りに指導する人は指導者ではなく、各選手に見合う訓練法を開発しなければならない△指導者は選手たちに絶対引きずられてはいけないという持論を守った。

チョン監督にとってもっとも残念で衝撃的だったのは、96年の黄永祚選手の引退と、99年の李鳳柱選手などの弟子が自分のところを離れていったこと。

6日午前、葬儀に駆けつけてきた黄選手は「監督は『毒蛇』というあだ名で呼ばれていたが、訓練でない場合は父親代わりの優しい方でした。92年別府マラソンで初めて2時間10分の壁を破って、2時間8分47秒で準優勝を取った時、涙が出そうになっていた彼の姿が忘れられません。僕がいざ監督(国民体育振興公団)になってみて初めて、チョン監督の気持ちが分かるような気がしてきた」と涙を拭っていた。



金華盛 mars@donga.com