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名作の中の女性たちはなぜああなのか

Posted March. 04, 2023 08:37,   

Updated March. 04, 2023 08:37

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じゃじゃ馬は手なずけられるべきなのか(『じゃじゃ馬ならし』)、ハードボイルド小説の探偵は、女が死ななければ任務を始めることができないのか(『さらば愛しき女よ』)、ギャツビーはひどいデイジーがいなければ偉大な存在に生まれ変わることができないのか(『グレート・ギャツビー』)。

挑発的なタイトルの同書では、書評家や女性学者など8人が古典文学を批判的に読み直す。『じゃじゃ馬ならし』、『月と6ペンス』、『さらば愛しき女よ』、『グレート・ギャツビー』、『ナジャ』、『その男ゾルバ』、『翼』、『メーデイア』が俎上に載せられた。

書評家のハン・スンヘ氏は、子供の頃に好きだった『じゃじゃ馬ならし』を読み直し、作品中の社会が女性を規定し、断罪する方法が過去に抵抗なく受け入れられたということに衝撃を受ける。美術評論家のチョ・イハン氏は、『その男ゾルバ』の中の女性に対する誇大妄想的な視線から「N番部屋事件」を想起し、「ゾルバは『私は自然人』と夢見る弱い知識人のファンタジーではないのか」と問いかける。

このような批判的な読み方が古典文学の意義を否定するわけではない。李箱(イ・サン)の「翼」を分析した女性学者のチョン・ヒジン氏は、「韓国文学史において李箱が成した文学的成果には同意するが、不快なのは作品に対する変化のない解釈だ」と指摘する。植民地時代の奴隷貿易を主導した人々の銅像が撤去されるように、時代の変化によって価値判断も変わらなければならないということだ。


金民 kimmin@donga.com