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日本植民地支配期の「汚物商売」、大きな利権事業

日本植民地支配期の「汚物商売」、大きな利権事業

Posted April. 28, 2016 07:27,   

Updated April. 28, 2016 07:37

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今はほとんどの家庭が水洗式トイレだが、30~40年前までは汲み取り式トイレが多く、汚物回収のためにバキュームカーが声をかけながら町中をまわった。汚物回収は近代都市行政の主要課題だが、関連研究はあまりない。旧韓末から日本による植民地支配期まで、ソウルの汚物回収システムに注目した研究が発表された。

韓国学中央研究院のソ・ホチョル教授は、ソウル歴史編纂院の学術誌『ソウルと歴史』に論文「ソウル市汚物回収システムの形成と変化:1890年代から1930年代まで」を載せる予定だ。

ソ教授は、「朝鮮末期までソウルの汚物は民間の『汚物商人』が無償回収し、都城内外の農民に肥料として販売したとみられるが、大韓帝国初代統監の伊藤博文の提案で1907年末に設立された漢城(ハンソン)衛生会が回収権を掌握した」と指摘した。

独立新聞には、1898年に政府が警武庁に訓令を下し、「汚物商人」に券を発行して営業権を認め、区域別に処理を任せたとある。しかし、衛生会が設立され、汚物商人は原則的に営業できなくなり、汚物処理は公営化される。衛生会は以前と違ってソウル市民に一定額の回収費用を徴収した。

これは大規模な利権事業だった。ソ教授は、「衛生会は汚物や肥料に使えるゴミ、屠殺場から出た血などを競売で売った。1908~13年に毎年2万ウォン以上の黒字を出し、1909年には7万ウォンにのぼった」とし、「日本人で大韓帝国内務次官を務め、鳥取県知事になった人物が、知事よりも汚物を農民に肥料として販売する会社の社長を望んだという記事が出るほどだった」と伝えた。当時、店舗つき家賃が5、6ウォンだった時代だ。

1914年から京城府(今のソウル市庁)が汚物処理を引き継ぎ、処理費を別途徴収せず、府の予算で事業を行ったが、費用は莫大となった。1914年のゴミと汚物処理費は約18万ウォンと全体支出の81%を占め、1920年まで毎年予算の半分を超えた。

日本人と朝鮮人の差別は汚物処理でも起こった。東亜(トンア)日報の1924年3月23日付の記事「南北差別の実例、朝鮮人市民の税金の使用を見る」によると、ソウル南方の日本人居住区は、北方の朝鮮人居住地に比べて、汚物処理の人夫や清掃夫が巡回し、運搬車など処理器具や設備も優れていた。

ソ教授は、植民地支配期の戸籍制度や住民監視システムを研究した社会史学者。ソ教授は「植民地国家権力の物理的暴力や経済的収奪だけでなく、保健衛生など日常の支配にも注目する必要がある」と強調した。



조종엽기자 チョ・ジョンヨプ記者 jjj@donga.com