Go to contents

南アの視聴覚障害神父と韓国の聴覚障害者神父の「沈黙の会話」

南アの視聴覚障害神父と韓国の聴覚障害者神父の「沈黙の会話」

Posted June. 24, 2013 08:27,   

「…」

「…」

それは沈黙の会話だった。たまに、「ウウウ」という意味不明の声が聞こえてきたが、周りの誰もそれを聞き分ける人などいなかった。しかし、二人は、相手の手にさわり、何度も首を縦に振りながら、限りない尊敬や信頼を示した。

21日午後、ソウル龍山区ニ村洞(ヨンサング・イチョンドン)の漢江(ハンガン)聖堂。世界初で、唯一の視聴覚障害者のカトリック司祭であるキリル・アクセルロード神父(71、南アフリカ)とアジア初の聴覚障害者神父のパク・ミンソ神父(38、カトリック聾唖宣教会)を一緒に会った。幸い見ることのできるパク神父が、声だけでなく光まで失ったまま、杖に体を頼っている年寄りの神父を支えていた。

いつの間にか、パク神父の目に涙が浮かんできた。2歳の時、はしかで聴覚を失った後、カトリック司祭の夢を見ていた時代から、彼にとって、アクセルロード神父は、同じ道を歩んでいる長い間の同志であり、師匠でもあった。パク神父は、アクセルロード神父の生涯を描いた本「キリル・アクセルロード神父」(カトリック出版社)の発行を取り持ったこともある。

アクセルロード神父は、英国や米国、香港など、8ヶ国の手話で意思を表現することができるが、見ることも、聞くこともできないため、相手の手話を触覚で認識している。同日のインタビューは、記者が質問すれば、チェ・ヨンスク修道女(殉教福者会)が中国広東語に通訳し、アクセルロード神父が、手話通訳士のシモン・チャン氏(香港)の手を触って質問の意味を把握した後、回答するやり方で行われた。また、アクセルロード神父の手話の回答は、チャン氏が広東語に通訳し、チェ修道女が再び韓国に通訳した。

いつの間にか、彼らの会話は、1997年秋の米ワシントンのギャローデッド大学で、二人が初めて会ったときにさかのぼっていた。

「その年、パク神父に会った瞬間、希望や幸福、興奮を一緒に感じましたよ。パク神父が、韓国の聴覚障害者のために大きく貢献するだろうという気がしたが、本当にそうなりましたね。これは奇跡ですよ」(アクセルロード神父)

「神父様は、謙遜で平和な方でした。そのとき、私も司祭になりうるという希望を持つようになりましたよ。その後、神父様が視力まで失ったという話を聞き、ほんとに胸が痛みました」(パク神父)

3歳の時、先天性聴覚障害の診断を受けたアクセルロード神父は1970年、司祭になった後、世界の各地で聴覚障害者のための司牧活動を繰り広げてきた。1980年、視覚と聴覚の障害を共に持つアッシャー症候群の判定を受けた後、00年、視力を完全に失った。

「これまで、聴覚障害者としての世界を生きてきたが、目まで見えなくなると、全てのことを再び始めなければなりませんでした。一体、私に何ができるかという恐怖が生じました。しかし、私の人生に、『大変特別な出来事』が起きたと思うと、人生という長い階段は、新たな『扉』を見せてくれました」(アクセルロード神父)

「あらゆる困難の中で、10年間準備してきた修士論文が落ちると、『いまや死ぬしか無いか』という気もしました。これすらできなければ、障害のある自分は、どうやって神父になるだろうかという絶望でした」(パク神父)

二人の神父は、母親と愛に関する質問に多くの共感を示した。

「母親は、正当のユダヤ教信者でありながら、カトリックを選んだ私の道を祝福してくれました。母親はいつも私の意見を尊重し、私も、同僚のユダヤ人らに対し、『私はカトリックラビだ』といいましたよ(笑い)」

「中学生の時、一般学校に通ったが、先生の口に集中しながら、『私はなぜここにいるのか』と、心の中で腹を立て、泣きました。そのたびに母親は、『いつも強くなりなさい。あなたならできる』と励ましてくれました」(パク神父)

アクセルロード神父は、自分の人生の座右の名になったキーワードとして、「エンカレッジメント(encouragement=励まし)」を、パク神父は、「皆と一緒に」をそれぞれ取り上げた。

講演に出席するため、手探りしながら慎重に立ち上がったアクセルロード神父の手は、平穏で暖かかった。漢江聖堂で行った講演のタイトルは、「この世にできることがある。私にも!」だった。タイトルのように、彼らにとって耐えづらい苦難はあったが、放棄など無かった。