盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の「敵味方論」がぶり返したようだ。盧大統領は5・18光州(クァンジュ)民主化運動の記念式典で、「最近、再び民主勢力が無能だとか、失敗したとか語る人たちがいる」としながら、「(それなら、彼らは)軍事独裁は有能で、成功した事例だと話したいのか」と反問した。「軍事政権の業績は不当に他人のチャンスを奪い取って成したもので、『独裁でなくては不可能な業績だった』という論理は国民の力量をあまりにも無視した言葉だ」とも語った。
盧政権の無能に対する批判を民主化勢力全体の無能と置き換えることで「民主対独裁」の新たな戦線を張るという意図でなければ、理解しがたい一般化だ。ソウル大学の宋虎根(ソン・ホグン)教授もマスコミとのインタビューで、「民主勢力全体をひっくるめて無能だとか、有能だとか語れる問題ではない」としながら、「自分たちの問題を民主勢力全体の問題と一般化してはならない」と指摘した。
この政権の無能と、これによる失政は再論の余地がない。大統領と与党陣営に対する低い支持率はさておいても、国のアイデンティティーの混乱や3年間も世界経済成長率を下回った成長率、国民生活の苦しさがこれを証明している。盧大統領は現政権の失敗を薄めるために、金大中(キム・デジュン、DJ)政権まで含めて、「民主化政権10年の業績」と云々したが、皮肉なことだ。
彼が例示した「バランスの取れた福祉社会の建設」や「平和主義の定着」だけを見ても、果たして成し遂げられたかどうか疑問だが、かりにそのような成果をあげたとしても、民主化以前の政権によって成された急速な近代化や成長なしには不可能だった。経済成長が民主化の重要な条件の一つであることは、戦後の数多い新生国の事例からもすでに裏付けられている。
盧大統領は、「軍事政権が他人のチャンスを剥奪した」としたが、これもやはり間違った歴史認識だ。それは、「剥奪」というより「選択」だった。国家発展の初期段階で「民主」という価値より「発展」という価値を選んだと見るのがより客観的で普遍的だということだ。盧大統領の論理に従うならば、いわゆる民主化勢力が遂げたという成果も、結局「他人のチャンスを奪って」遂げたことになる。盧大統領の発言は結局、「大統領選挙を『5.16勢力対5.18精神』の対決構図で行おうという狙い」をさらけ出したと見ざるをえない。