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[オピニオン]反省文

Posted January. 15, 2003 23:10,   

どんな大罪を犯した人であっても、罪を悔い反省の涙を流す時には、誰もが粛然としてしまう。人間が動物と異なるのは、自ら反省できる能力をもっているところにある。人間が文章の形で残した反省の記録は数え切れないほど多い。世界の3大ざんげ録とされるアウグスティヌスとルソー、そしてトルストイのそれは、今も広く読まれている。これらの率直な告白からは、他の文学作品では接し難い、魂の香りが漂っている。人類の歴史に偉大な業績を残した人たちですら、限りなく弱い内面を持っていた事実を確認できる。詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の「明日それとも明後日のとある楽しい日に、私はもう一行のざんげ録を書かなければならない」という詩句は、いつ読んでも心を動かされる。

◆歴史上最も関心を集めた反省文は、00年ローマ法王庁が発表したものではないかと思う。この謝罪文は、ユダヤ人の迫害、十字軍戦争、魔女狩り、新大陸における虐殺ほう助など、2000年間にキリスト教が犯した重大な過ちを反省している。ドイツが第2時世界大戦中に犯したユダヤ人虐殺について「狂信的なナチスだけによるものではなく、数百万人のドイツ人が、少なくとも大抵のことは知っていた」として、自らにむちを加えたことは、過去の歴史の反省に消極的な日本と対照をなしている。実際、反省はかなりの勇気を必要とする。しかし、「悔いる」や「懺悔(ざんげ)」といった単語を、いとも簡単に口にする最近の風潮にも問題がある。

◆人的教育部(教育部)がこの5年間の教育政策を反省する資料を発表したことは、なんとも複雑な心境を抱かせずにはおかない。「政策の決定と執行において、教育共同体構成員の参加とコンセンサスづくりが振るわず、長官の頻繁な交代により教育への不信感を与えた」というのだ。誇り高き政府機関が反省文を書くというのは滅多になかったことだったからこそ、そして教育行政がこれまでに硬直した態度を見せていたからこそ、自らの刷新に向けた肯定的なシグナルとして受け止めたいものだ。教育当局が新たな再出発を誓っているのに、薄情にあしらうのも得策ではない。それでも、なお気に入らないのは、今回の反省が「真のざんげ」だろうか、という疑いが晴れないからだ。

◆キリスト教で使われる「ざんげ」という言葉は「悔い改める」という意味。悔いることに止まってはならず、過ちをを正した時に、はじめてざんげの真の意味が成立する。今回の反省文は、教育部が新しい政府に気に入られようとするジェスチャーではないはずだ。過去の失敗を繰り返したくないという覚悟の表現として解釈したい。当然そうでなければならない。しかし、最終的な判断は先送りせざるをえない。彼らの反省が「悔」に止まるか、それとも「改」につながるかは、もう少し成り行きを見守らなければならないからだ…。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com