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李舜臣、元均、崔鳴吉

Posted August. 06, 2019 09:57,   

Updated August. 06, 2019 09:57

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漆川梁で元均(ウォンギュン)の朝鮮水軍は全滅した。今日でも元均という名前を聞いただけで怒る人が多い。この戦闘を分析すれば、元均の戦術的な誤りは確かにある。いや無能に近いほど無謀な指揮をし、倭軍のペースと戦術に完全にのまれ、術中にはまった。しかし、この敗戦の責任を負わなければならない人々、にもかかわらず全く責任を負わなかった人々がもっといる。当時のアマチュア戦術家、世論に便乗した政治家、官僚らだ。この事件は、「陸軍は倭軍が強く、水軍は私たちが強い」という門外漢の二分法から始まった。このため、水軍が出て釜山浦を陥落させれば戦争は終わると誰かが扇動を始めた。

李舜臣(イ・スンシン)と彼の艦隊はびくともしなかった。戦術の第一原則は、自分が有利なところで戦うことだ。自分がここで勝ったからといって、あそこでも勝利するとは限らない。李舜臣はこの原則を忠実に守り、釜山港攻撃はしてはならないと主張した。朝鮮水軍の伝説を作ったのが李舜臣だが、扇動家らは「勝利でき、直ちに戦争を終息させることができる行動をしない」と非難し始めた。宣祖も同調し、李舜臣は解任され、悲劇は始まった。元均は戦死したが、口で戦った人々は反省文すら残さなかった。

歴史は恐ろしく繰り返される。単純で明らかな誤りであればあるほど、より恐ろしく繰り返される。40年後、南漢山城(ナムハンサンソン)。城を包囲した清軍の圧迫が激しくなり、朝鮮は城の陥落か、降参するしかない状況になった。すると数人の官僚はこのすべての事態を招いた人が崔鳴吉(チェ・ミョンギル)なので、彼を殺さなければならないと主張し始めた。崔鳴吉が何の罪を犯したというのか。清との和親を主張し、軍事行動を阻止し、敵の戦力を誇張して軍事の志気を落としたという罪目だった。すなわち、団結して強い精神力で戦ったなら清軍を撃破できたのに、崔鳴吉が講和を主張して台無しになったということだ。歴史はまた繰り返される。私はそのおかげで歴史学者という職業で暮らせるのだと慰めている。

歴史学者


キム・ソンギョン記者 tjdrud0306@donga.com