周りでよく見かける小さな池。池の水があまりにも澄んでいて、空の風景がそのまま水中に映って揺れる。広い海や湖ならともかく、100坪余りの小さな池が、どうしてこんなにも鏡のように清明だろうか。水源から絶えず活水が流れ込むので可能なことだ。止まったり溜まったりせず、常に新たな充電が行われるので、腐ることもなく濁ることもなく一新又一新する。この理は、詩人が池のほとりを散歩していた時、水の発源地を見つけたために思いついたのではない。詩題からも分かるように、本を読んでいるうちにふと思いついたことだ。読書を通じて絶えず新しい知識と知恵を受け入れ、蓄積していく時、私たちの精神世界もそれだけ斬新で豊かになるという論理に読める。孔子以来儒学を集大成して性理学に発展させた思想家らしく、詩人は自然景物の凡常な理からその学問修養の真理一つを導き出した。
この詩は2首からなる連作詩。第2首でも、詩人はまるで一幅の景色を詠むように、読書の効用を暗示する。「昨夜、川辺に春の水が増えると、巨大な争い船さえ羽毛のように軽く浮かぶ。これまでそれを移すのに苦労していたが、今日は川の真ん中をうまく漂う」。精一杯力を動員したからといって、巨艦を動かすことができるわけではない。春の水かさが増せば船はおのずと進む。読書で修業を積みながらゆっくり条件が熟するのを待て、という細心のアドバイスと聞けば良いだろう。