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宦官・王振の死

Posted March. 03, 2020 08:15,   

Updated March. 03, 2020 08:15


1449年、52万の大軍が北京を出発して山西省に向かった。皇帝英宗と英宗の師匠だった宦官の王振が親征するモンゴル征討軍だった。エセンという英雄が指導するモンゴル族の一派オイラト族が明に反旗を翻すと、英宗がオイラトを征伐するために出征したのだ。明の軍隊は長所と短所が明らかで、長所は少なかった。ほぼ唯一の長所は火薬の武器とこれを活用した守城戦だった。特に、遊牧騎兵には非常に効果的だった。しかし、火気もまだ性能が未熟で、野戦に出れば相手にならなかった。誰より明軍の弱点をよく知っていたのは軍の指揮官たちだった。オイラト軍が近づくと、明軍の指揮官はひざまずいて軍を撤収するよう哀願した。しかし、英宗と王振は聞く耳を持たなかった。

 

この親征の主役は英宗ではなく宦官の王振だった。しかし一体どこからこのような勇気が出てきたのかはミステリーだ。無知による勇気という推測以外に理由がない。出征を強行した理由は何か。王振の立場から見ると、彼は中国の歴史で初めて権力を持った宦官だった。王振の不正蓄財は中国の数年分の財政に該当するほどだった。批判がなかったわけではなく、批判を静めようと巨大なイベントを企画したようだ。しかし、皇帝と自分はだませても、現実をだますことはできなかった。

緒戦で明軍は大敗した。その時に王振は撤退を決めた。しかし敗戦の責任を恐れ、自分の別荘がある方向に撤退した。別荘で宴会をし、英宗の心を癒そうという思惑だったという。このミスで、彼らはオイラト軍に捕えられた。王振は殺害され、英宗は捕虜になり、明は滅びそうになった。簡単に金を儲けて簡単に成功すれば、世の中を軽くみる。イベントで政治をすれば国民が愚かに見え、イベントの力を過信する。国を得るより維持するのが難しい。ショーで人々を幻惑することはできるが、問題を解決することはできない。王振が与えた教訓は、世の中をだます者は最後には自分にだまされて破滅するということだ。

歴史学者